就業経験・創作経験無しの文系オタクがゲームクリエイターになれた経緯

 2018年の夏ごろ、割と衝撃的な社会ニュースが目に入った。
 10代の若者の「なりたい職業」ランキングの上位にゲームクリエイターが入っていたのである。それも記事によれば近年トップ5には常に入っているらしい。

 いきなり私事になるが私はボランティア活動で小~大学生といった、いわゆるティーンエイジャーと接する機会が多く(いや別にあやしい意味でなく)、私の職業を説明とすると目を輝かせる子がここ数年増えた気がする。中には真剣にゲーム業界を目指して就活相談しに来たりする子もいた。

 長いこと何故彼ら/彼女らが私の話を聞きたがるのか不思議に思っていた。
 私が現在進行形で割と有名なタイトルに携わっていたからだと思っていたが、先日ふと相談者の高校生の聞いてみたら、衝撃的な答えが来た。

「だって雑務屋さん、文系大学出身でプログラムひとつも書けないクソ雑魚のくせに、立派にゲームクリエイターやってるじゃないですか」

 黙れ、小僧!!
 と声を大にして叫びたかったが、ふと自分を振り返れば、自分は世の中の人が想像するような「ゲームクリエイターらしい」スキルを何も持っていない。

 プログラムなんてほぼほぼ分からない。
 ゲームシナリオが書けるわけでも無い。
 美麗なイラストが描けるわけでも無い。
 SEやBGMといった音楽分野の素材が作れるわけでも無い。
 画期的なゲームシステムや売れるアイデアを持っているわけでもない。       
 自主的にゲームを作ったり、同人制作チームに所属していたことも無い。


 つまり、オタクコンテンツが好きというだけで仕事をしている。

「スキルも経験も無いけど、ゲーム好きなんで作りたいです!」と言っているダメ学生と何ら変わらない。少なくとも私がこんなヤツがうちの会社に就活に来ても絶対に落とす。だが、今のゲーム運営会社では一部門の統括を行なっている。

 そこで「ゲーム制作のスキルも無ければ、創作実績も無い」筆者が、自身の過去の経緯や現在のゲーム業界の小噺を特に意味も無く吐き出していく。

 真剣にゲーム業界を目指している未来ある若者には全く何も役に立たないこと請け合いであるが、こんな奴でもゲームクリエイターをやれているのだ、と笑い話のタネになりでもすれば幸いである。

 さて、以下は筆者がどのような人間で、どのようにゲーム業界に潜り込んだか、というお話であるが中年のおっさんの半生など興味も無い人の方が大半だろうと思うので、読み飛ばしを推奨する。
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 さて、まず筆者であるが、改めて職業は現役ゲームクリエイターである。
 一口にゲームクリエイターといっても媒体によって天と地ほども立場が違うので、色々と補足していく。

 まず、私はいわゆる「スマホアプリ」や「ソーシャルゲーム」と呼ばれるタイトルの運営に携わっている。自慢ではないがそこそこ話題の大きなタイトルだ。というか、私はアプリゲームの製作にしか関わったことがない。コンシューマゲームの開発経験は皆無である。

 担当はいわゆるプランナー。
 企画職とも呼ばれていたりするが、私の所属運営の場合、そこから分岐した「世界観(ワールド・ロアー=Warldlore)」という部門があり、そこをまとめる立場にある。

 これは文字通り、ゲーム内の世界観を形作るあらゆる要素を制作する部門で、組織図的には更に「チーム」という単位で細分化され、
・キャラ設定やCVを取り扱う「キャラクター」チーム
・ゲーム内設定やシナリオを制作する「テキスト」チーム
・コンセプトアートから背景美術まで行なう「ロケーション」チーム
 この三つを統括している立場である。

 先人の表現を借りることになるが、ゲーム制作という現場には、大別すると二つの要素を作る部門が存在する。

・プログラムやデータ、仕様といった「メカニクス」を作るチーム
・キャラやストーリー、サウンドといった「テーマ」を作るチーム

 私の場合は「テーマ」側を作る人間ということになる。

 この「メカニクスとテーマ」に関しては、別記事で書こうと思うが、実はゲーム業界を目指したい、という子たちの多くはこの「テーマ」を作りたいと思う子が圧倒的に多いのだが、その話は別記事にしようかと思う。

 さて、ではなぜ私がこのような立場につくようになったかを語るのが今回のお話である。

 まず先述した通り私はオタクコンテンツが好きなだけでゲームクリエイターになってしまったわけだが、多分遅咲きの方だと思う。
 学生時代からゲームや漫画やアニメといったコンテンツをそこそこ読んだり観たりしていたが、暇つぶし以外の存在ではなかった。

 その後、一浪を経て私立文系大学卒業後は某本屋チェーンに新卒入社した。つまり、学生時代に何らかのゲーム業界に関わるような勉強をしたり、創作活動に情熱を燃やしたりしたことは一切無い。

 本屋の仕事は給料も安い上にキツい仕事環境であったが、担当が漫画・ラノベのコーナーだったので仕事は楽しかった。思い返すと、この時の本屋での経験が後々ゲーム業界に飛び込む大きなきっかけになった。

 漫画・ラノベコーナーの担当でありながら、当時の私はそれほどオタクコンテンツに興味が無かったのだが、商品情報に触れるうちにあれよあれよとコンテンツにはまっていき、1年後にはコミケを駆けずり回る立派なオタクに成長していた。

 が、割とオタク活動ばかりもしていられない事情があった。
 今では完全な笑い話であるが、当時付き合っていた女性と真剣に結婚を考えていたのが、少ない給料をオタク活動に全ブッパしていたので全く貯金など行なえていなかったのだ。

 当時の私は、何のビジョンも無いのに安易に転職による給料の値上げを画策し、本屋を辞めて転職活動に入ったのだが、これが箸にも棒にも掛からなかった。

 当時は新卒3年も保たずに会社を退社した人間など色眼鏡で見られる傾向が強く、ましてや実績もスキルも資格も無い人間の転職活動など上手くいくはずも無い。

 それでもいくつか目指していた金額の給与を貰える会社に勤めたこともあったが、どこの会社に勤めていても非常に苦しい状態が続き、職を転々としていた。

 その理由は簡単で、私はどうにも日本の会社特有の「非効率的な慣習に従って」仕事をすることが苦手だった。勿論、それが仕事の成果やユーザーに提供するサービスのクオリティに繋がっていれば問題ないのだが、特定個人や特定部署が「気持ちよく仕事するため」だけに、存在する「空気読みルール」がとにかく苦手だったのである。

 実は本屋では先任の先輩社員が早々に退職してしまい、私はほぼ独力で仕事を覚え、自分で仕事のやり方を考えて担当売り場を回していた。
 つまり仕事内容をほぼ全て自分の責任下でコントロールしていた。後に考えるとそれが非常に良い環境だったのだ。

 そんなこんなで仕事場では煙たがられている日々が続いたせいで、プライベートではますますオタクコンテンツにのめり込んでいくことになったのだが、ある時一つの転機があった。

 当時はニコニコ動画や深夜アニメ全盛期であり、ニコニコや同人界隈で著名なクリエイターがメディアに取り上げられるような機会が急激に増えつつあった。

 私はそんな著名クリエイターの一人と無名時代からの友人であったのだが、彼からひとつの相談があった。

 友人はフリーのクリエイターとして活動していたのだが、企業からの依頼といった本業は勿論、インタビュー記事や動画投稿者同士の合同企画への参加など、あまりにも多くの依頼が舞い込み、目が回るような日々を送っていた。

 折しも時代はいわゆるソシャゲー黎明期。
 これまでデジタルゲームが「ゲーム機」を前提にしていた故に、大企業しか手が出せなかった業界に「携帯・スマートフォン」という市場が生まれ、無数の新興ゲーム制作会社が雨後の筍のように生まれ、乱立していた。

 2021年現在では、開発費が10億円を越えてしまうソシャゲー業界であるが、当時はマンションの一室を事務所にして3人で作ったしょぼいシステムに、pixivで見つけてきた個人クリエイターのイラストをのっけただけのゲームが、ガチャで数億稼いでいたような時代だ。

 「安く作って高く売る」というのは、現在のソシャゲー業界ではもはや鼻で笑われる類の妄言だが、そんな時代も確かに存在したのだ。
 だが、この急速な市場の発展の中で、ひとつの大きな問題があった。

 乱立するゲーム制作会社の過剰な需要に対して、コンテンツ制作側、つまりはクリエイターの供給が全く追いついていなかったのである。これは特にイラストレーター不足が深刻であった。

 社内にデザインチームを抱えることができる会社などほとんどおらず、多くのゲーム会社はpixivやTwitterで作品を公開している個人クリエイターに制作依頼をかけていた。

 しかし、当時はゲーム業界初参戦の会社が多く、同人イラスト業界のイロハやお約束事をまるで理解せずに、めちゃくちゃな発注や無理をクリエイターに突き付けてくる制作会社が少なくなかった。

 また個人クリエイター側も対企業のビジネスであるという認識が薄い、つまりはプロとして仕事を任されているという意識が少ない作家の方が多く、同人誌の寄稿イラスト感覚で仕事を受け、指示書を無視したイラストを提出したり、〆をブッチするような人間も数多くいた。

 ちなみに、この時分は「企業からこんなヒドい案件を押し付けられた!」みたいなmixiやTwitterで内部告発的に投稿している作家がたくさんいた。
 確かに企業側がクソなこともあったが、経験上、火種を作っているのは大抵個人クリエイターの方である。この辺りの話は、また別の話題として触れていこうと思う。

 話を友人に戻すが、友人はいわゆる「内にこもるタイプ」のクリエイターであり、人付き合いがほとほと苦手なタチであったので、絵が評価されて依頼をこなすこと自体には抵抗は無かったが、仕事上のやり取りが精神的に大きな負荷になっていたのだ。

 そこで、私は彼のマネージャー役になることを提案した。
 当時、友人への外部からの接触はmixiかメールで行われていたので、その窓口に私が立ち、友人のスケジュール管理を含めた総合的なバックアップを行なうことにしたのだ。

 自画自賛になるが、このマネージャー業は非常に上手くいった。
 多い日は数十件も舞い込んでくる案件依頼メールを3段階のレベルに仕分けし、受けた案件はそれぞれスケジュールを引き、見積もり書を作り、契約書を確認し、製作費の交渉や代理の打ち合わせに出席し、納品後は請求書の送付を行ない、電話対応先も私の個人携帯にするなど、総合的な制作進行を行なっていった。

 友人はクリエイティブに集中できる環境が本当にありがたいと言い、報酬の何割かを回すことをわざわざ書面にして個人契約までしてくれた。

 また私の働きぶりを友人がクリエイター仲間たちに喧伝してくれたおかげで、私をマネージャーとして雇いたい、という方たちが現れ、最大で5人分の制作進行を行なっている時期もあったりした。
 そんな広がりをみせたこの「副業」の報酬は、時に本業よりも3倍以上稼ぐこともあった。

 が、この「副業」にのめり込むほど、本業の評価は下がっていったのだが、現実逃避をしている私にはそれが見えていなかった。また恥ずかしながらプライベートで大きな事件があった。

 結婚を考えていた彼女にフラれたのである。

 私はこの「副業」がオタクブームにのった一過性のものだと薄々理解しており、この「副業」を彼女に黙っていた。そりゃ向こうから見ればいい加減に仕事を放り出している男にしか見えないので当然である。

 男なんて単純な生き物であり、「副業」の情熱は彼女との未来を夢みて生まれていたので抜け殻になった私は友人以外の「副業」を取りやめてしまった。が、折悪く、と表現するのは非常に不適切だが、友人の方は見事に長年のパートナーとゴールインし、奥方が窓口を担当することになり、私はお役御免となり「副業」は完全に廃業になった。

 しかも抜け殻状態で本業に身が入るわけもなく、かねてから評価の悪かった私は肩を叩かれることになった。

 わずか3ヶ月のうちに彼女も本業も副業も失った私は鬱状態になり、深酒の末に階段から転落して鎖骨と頭骨にヒビを入れたりしていたが、病院のベッドで感じたのは「とにかくまともに働かなくては」という強迫観念じみた思いと、一体どんな仕事ならば自分に向いているのか、という考えだった。

 その時に真っ先に思い返したのは、やはり「副業」で忙しく立ち回っていた時期だった。

 つまり、あえて格好良く言うならば「クリエイターとそれを求めるファンの橋渡し」になっていた時期が、一番充実していた。

 クリエイターには「君のおかげで助かってる」と言ってもらえ、その成果物である作品を受け取ったゲーム開発者の方が「〇〇さんの作品は本当に素晴らしい」と絶賛し、実装されたイラストを見て、イラストレーターやゲームのファンの皆さんが「すごい!! 〇〇さんの描き下ろしだ!」と、その案件に関わった人間全てが笑顔になっている光景。

 それを何度でも観たいがために、あんなにも「副業」に自分はのめり込んだのだと気付いたのである。

 さて、ソシャゲ黎明期は需要と供給のバランスが全然取れていなかったと先にも触れたが、その原因のひとつは、当時のゲーム制作会社はどこも運営において回転の速さ、つまりは次々と新キャラを出してガチャを回させることに躍起になっていたからだ。

 しかし、回転が速いということは、ユーザーたちの目にはどんどん新規のイラストが入っていくので、顧客の目は急速に肥えていっていた。
 ひと昔前は通じた同人に毛の生えたようなイラストは見向きもされなくなっていったが、回転の速さは変わらない。

 そのため、どこの会社もクオリティの高いイラストや有名クリエイターの起用を求めるようになったが、制作期間と予算がそう簡単に変わるわけでも無い。

 私は、この状況が大きなチャンスに見えた。
 私はマネージャー業こそ廃業していたが、さきの友人をはじめ、多くのクリエイターに知己がおり、また彼らを通じてソシャゲ運営会社の「中の人」にも伝手があった。

 そこで、特に仲の良かったとあるソシャゲ運営会社窓口のAさんに声をかけた。つまり「私は有名イラストレーターの〇〇〇さんとか■■■さんの友人だから、クオリティの高いイラストを安定供給できる人材ですよ」と営業をかけたのである。
 Aさんはマネージャーとしての私を評価してくれていたらしく、ほとんど雑談のような面接だけで私はその運営会社に入社することになった。

 大いに期待された私だが、ぶっちゃけ営業文句の8割は嘘であった。
 確かにクリエイターの友人や知己は数多くいたが、正式な仕事の依頼となると話は別だ。

 だが、クリエイター個人の人となりを知っているだけに「こういう依頼にすれば受けてくれるはず」というおぼろげなビジョンだけは持っていた。あとはその「型」に会社都合をどれだけアジャストできるか、ということが課題だった。

 直上の上司になったAさんであるが、彼は非常に柔軟でクレバーな人物で、同人イラスト界隈のイロハや同人イラストレーターの機微というものを把握してはいなかったが「なら知ってる奴に任させれば良い」とハッキリと割り切り、その業務を完全に私に委任してくれた。

 今思えば入社1日目の人間によくもまあ、あそこまで任せてくれたものだと思う。当然、私が失敗すればAさんの責任になるのだ。

 これは失敗できぬと私はとにかくガムシャラに働いた。
 結果を言えばこの時の私なりの「依頼フォーマット」は、当時のクリエイターたちに非常に好評で「イラスト未発注」のまま制作がとん挫していた多くのキャラクターを世に送り出すことができた。

 ―――さて、ゲームクリエイターとして一歩踏み出したところまで6000字を越える大長編になってしまったので、一旦ここで筆を止めようと思う。

 続きはまた何かの機会に書こうと思うが、文系の私がゲーム業界でやっていけてるのは、記述した通り「ゲーム制作の知識も技術は無いが、知識や技術がある人の開発環境を改善できるから」である。

 クリエイターは時々「神」などと言われたりするが、当然ただの人間なので好悪の感情があり、社会人として仕事を受ける以上は煩わしい人間関係や事務仕事がついてまわる。
 
 クリエイターは誰だってそんなものに触れたくないのだ。
 だから、私のような物は作れないが「物を作れる環境を作れる者」は、ゲーム業界には必要だった、ということになるだろうか。

 この「環境づくり」の具体的な事例に関しては、また別記事にて紹介していこうかと思う。

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