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幸せだと思える一瞬はいつでもどこかに

 気付けば春はいなくなってしまった。つい最近まであんなに桜が綺麗だった(気がする)のに、今では地面に落ちた花弁すら見当たらない。いつも置いて行かれている。何となく焦っているけど焦ったところで何をすればいいのかも分からなくて、それでこの街に来てからずっと憂鬱だった。楽しいことも割とあるけど、嫌なことが重なるとそればっかり気になって、何をするにも無気力に感じてしまう。

 ちょっと気分が沈んでいて、この前、福岡にいる友人と久々に通話した。高校三年で知り合った彼とはお互いの好きなバンドを紹介し合っていた。僕がクリープハイプとKANA-BOONを布教したら吃驚するくらいハマってくれて、あと布教したわけではないけど気づいたらSaucy Dogも聴くようになっていた。一方の僕は彼にindigo la Endとおいしくるメロンパンを教えられた。それと同時に、彼は受験期を共に過ごした戦友だった。部活も志望校も違ったけど、でも向かっている方角は一緒で、お互いに何回も間違えて、どれだけ真摯に向き合っても報われない思いだって腐るほど味わってきた人間だったから、ずっと本質的な部分で分かり合えていた。

 久々に言葉を交わしたけど、とりあえず、人間性とかは変わってなさそうで安心した。偶によく分からない言語を発してたけど。でも、全部が上手く行っているわけじゃないのは僕だけじゃなかった。彼は彼で、得るものがあれば、その分だけ失うものもあったみたい。一つ一つがどうでもよくならないのも同じみたいで、それでも生まれてくる明日に無理矢理にでも向き合おうとしているようだった。どう考えても彼の方が辛いはずなのに、前を向いているように見えた。そんな彼を見ていると、僕は何かを失うことすらできていないことに気づいた。得たものがないから失いようがなかった。"上手く行かない"も何も、まだ何も始めてすらいない。まだ届く距離にあるうちに手を伸ばすことをしないでおいて、過ぎ去って届かなくなってしまってからいつも通りの後悔が押し寄せて、そんな感覚にも慣れつつある。いつもそうだったから。簡単に割り切れることばかりじゃないのに、それでも彼は、"明日も進んでいかなきゃいけないから、今を大好きになる"とか言っていた。相変わらず、彼からは学ばされてばかりだ。それにしても、なんか聴き覚えのある言葉を引っ張ってくるあたり、僕も少しは彼の人生の何処かに良い影響を与えているのかもしれないね。

 彼も僕と同じように前向きなタイプではないと思っているけど、それでも彼は加点法で生きている。足りないものを埋め合わせる為に、今あるものを失わない為に、ちゃんと自分から行動している。これが僕にとって本当に必要なことなのかもしれない。僕の方はずっと減点法だ。失うものや手に入りようがないものが増え続けては擦り減る一方だ。と言うか、そう思い込んでいる。失ったものを計るだけの毎日だ。先月自宅に届いた高校の合格体験記を読み返してもそうだった。2人とも、国公立前期で合格して、今は大学生をやっている。合格した大学のレベルだけを見れば、大きな差はない。そういう意味では、着地点は同じはずだ。だけど、人生の何処かで妥協し続けている僕の文章はどこか後ろ向きで自信がなくて、一方の彼は自分の辿ってきた足蹠を、そして最終的な結末を、ちゃんと誇りに思っているように見えた。僕は彼のことを心から尊敬している。脆弱な僕も、彼に触発されるようにして受験勉強に打ち込んだ。彼に負けていられないと言う気持ちも、僕を突き動かす原動力の一部を担ってくれていた。だからこそ、彼の合格を聞いた時は、自分のことなんかよりずっと嬉しかった。思えば僕が彼に勝っているところなんて一つもなかった。

 気が沈んでいるときはいつも、慣れない場所を散策するのが一番好きだった。何も得られなくたって、普段と違う景色が目に映るだけで、一つの狭い空間に押し込められているような鬱屈さから解放される。あの頃身に着けた術が今も僕を救ってくれている。急に思い立って地下鉄に乗り込んで、行く宛もなく、何もない街を1人で歩いた。

 歩道橋の上で彼が教えてくれたあの曲を思い出して聴いた。「春は溶けて」。受験期に何回も僕を救ってくれた曲。そう言えばあの頃も市電沿いの歩道橋でこの曲を聴くのが何となく好きだった。歩道橋の上から見える景色は、地上から見えるそれと何ら変わらない。その景色との間に少し距離ができる、ただそれだけ。でも、鬱屈としたアスファルトの重苦しさから逃れて、風通しが良くなるだけで気分が軽くなって憂いも溶かされるみたいだった。"足を止めて息を吐く自分を褒めてからでいい"。"そのままでも間違えてはないさ"。歩道橋の上から、何も変わらない街の延長線上を眺めながら、どうせ間違ってばかりのこの生活も、そうやって肯定してやれる気がした。

 "幸せだと思える一瞬はいつでもどこかに"。幸せって定義されたものではない。"幸せ"だと思えるかどうかに過ぎないみたいだ。どうせ現状は何も変わらないんだったら、加点法で生きた方が、少しはこんな日々のことを幸せと呼んであげられるのかもしれない。

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