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暴力の経験と同棲の選択

子どもの頃、小さな森のような公園が近所にあった。自殺者が絶えないだとか、火事がよく起きるとか、子どもたちの間でよく噂になっていたため、人気のある場所を選んで遊んでいた。

公園の奥には、森林のなかに長い階段があって、高い木がたくさんあって、薄暗くて、ある日一人で階段を下ったことがある。

冒険心だとか、恐怖心だとか、途中で引き返そうかどうしようか、ないまぜになった気持ちのまま、途中まで降りて、明るい場所が見えなくなるかどうかというところで引き返した。

危ないかもしれない、とわかっていても、もとの場所に戻りたくないし、挑戦したい。そういう考えを取ることが、これまでの人生の道を切り開いてきた。リスクを意識しながら、なるべく自分に合わないことは途中で引き返す。行けそうだったら進む、そんな風にできるだけ、自分にとってベターなみちを選んできた。

時々失敗したりして、暴力的な両親の家に戻って住んだり、暴力をふるう恋人と同棲を続けてしまうこともあった。これらの時期は、林の中の階段を、ひたすら自分にあっていないけど、この道に挑戦してこの先を見たい、良い結果を得たい、と後ろの明るくて比較的安全なみちを見ながら、降りて行っている過程だった。

家族も元恋人も、本当にすてきな人だったし、ずっと一緒にいられたらよかったと今も思うが、この人たちの関係は、薄暗い階段を下り、精神を殺しながら、降りた先は自死以外の道はなかった。でも当時は、元の孤独で比較的安全な道には戻りたくなかった。

友達や親しい人たちに引き留められて、安全な場所を作ってもらい、助けてもらって、道を引き返し、今に至る。

地道な選択と、孤独との折り合いをつけ、人に相談することを意識することで、一人を楽しめることが増え、一人で生きていけるようになった。仕事や家、相談する人や遊ぶ人などの心の支えをかてに、少しずつ平坦な(時々ハードな)坂道を上っている。

好きなものに囲まれて、自分の意思をもって、一人で生きていけるようになることを目標に暮らしてきた。課題だった勉強や就職を、人の支えを得ながら、一つずつ進めることができた。

ここ最近、一緒に過ごせたら楽しいかもしれないと思う人ができた。この人と暮らすことについて選択をする過程にいまある。マイノリティな部分が多い自分が、また別の人間と暮らすことができるのか、不安に感じている。

この選択が、森林を下るような階段なのかもしれないし、平坦な明るい坂道を上るような道なのかもしれない。どちらも似たような道の可能性もある。でも、力の差ができるかもしれないとか、関係が崩れるかもしれないとか、いやなことが頭をぐるぐるする。

なんて卑屈なんだろうと正気に戻って、すぐに、でもな、、と考え始める。一緒に暮らす人と、安全な関係を作れなかったこと(あきらかに暴力をふるう相手が100%悪いが)、安全なだれかとの生活に再挑戦することになる。それが今は不安だ。自分が被害者にも加害者にもなりたくない。

対話を意識して、暴力がもしあったら、すぐに逃げること、暴力を振りそうになったらすぐに距離をとること、意識して、適切な、安全な、生活をできるようになりたい。

薄暗いあの道にもうニ度と入りたくないし、相手に入らせたくない。私たちは対等な道を歩いているのか、不安になることも多いが、挑戦してもいいのかもしれないと今書いてて思う。

時間がたって、選択をしたことに自分にとってベターな道だったなと思えるような選択ができたと思えるようにしたい。

以前、ともだちが、ベストじゃなくてもベターな選択を選べたらいいのではと教えてくれた。決めてしまえば楽になると言った友達もいて、人生の岐路に立つときに思い出す。いろんな意見を参考にしながら、選択して、主体性を得てきた。この選択も自分と相手を尊重して、ベターな選択を決めたい。

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