なぜシン・ウルトラマンが全然面白くなかったか

庵野監督の作品が大好きだ。エヴァ全作、トップをねらえ!、シン・ゴジラと……。長いこと魅了されてきたと言っていい。視覚的な非視覚的感覚、心情表現の非心情表現。アニメで、人間の感覚をそうやって表現できるんだと感動した僕ら。だから、だからこそ"ウルトラマンにわか"なりに楽しみにしていたわけだ。していたんだけど……。

結局、結果はタイトル通りだ。全然面白くなくて、何も思わなかった。そんな馬鹿な。庵野監督作品で庵野ファンの僕が何も思わないなんてことがあるだろうか。あった。では、きっと、だとすれば。かつて僕の観た庵野作品にあったものがウルトラマンになかったんだろう。それを今誰に望まれるでもなく分析してみよう。でなければ個人的に納得いかないからだ。

元来庵野自身ウルトラマンには並々ならぬ想いがあった。それは自主製作で自身がウルトラマンを演じたのだから相当だろう。地球の平和を脅かす何かに、地球外生命体が"なぜか"命をかけて戦う。それは美しい。けれど、庵野監督の根本にはまた別のピースがある。それは"欠損"と"内部"だ。

どういうことか。去年プロフェッショナルで放映された通り庵野の父は不自由な身体を持ち、鉄人28号を観てきた庵野には見せかけの美しさよりも内に、あるいは失われたその姿自体に美徳を見出していた。作中でもエヴァの中身に生々しい肉が、鉄人28号は欠損してもなお戦う姿が。あらゆる彼の作品で痛切なまでに人間の、何かの内部を描いてきた。そしてそれが僕は大好きだった。誰にでもできることではない。ウルトラマンに欠けていたのはきっとそこだろう。戦中を生きた親を持ち、狂乱の昭和を生きた彼だからこそ描けたもの。それがないから寂しいのかも。

つまりエヴァは、ナージャは、トップは。それなりに時間をかけて人間を描いてきた。数十話で、数時間で。それでシン・ゴジラでは時間が足りないからわかりやすいスパイスを用意した。ゴジラの進化、日本の極めて正確な対応。恐怖、畏怖、絶望、希望、切望。そのどれもが映画にとって、誰にとってもわかりやすいカタルシスを生んだ。要は映画の中にいくつも感動ポイントを入れ込んだわけだ。ガキ、若者、くそじじい、アルツハイマーも誰もが感想を持てるように。けれど、シン・ウルトラマンにはそれを用意できなかった。あまりにも庵野自身ウルトラマンを"子供のままで"愛してしまったからだ。異常なまでに無邪気なままで。

そもそも本当に商業的に映画を監督するならゴジラみたいにわかりやすくウケる要素を散りばめたはずだ。それを庵野はウルトラマンだけにはしたくなかったんだろう。本当に自分が作りたいウルトラマンを作ろうとした結果あんまり面白くない映画になってしまった。それは"にわかなりに"ウルトラマンを、映画を知ってる僕ならわかる。やりたいことをやっただけではあんまりウケないのだ。数十%くらいは観客に感覚を譲って作品を生まなければならないのに、それを庵野はやらなかったから庵野的に満足できて、きっと自主製作ウルトラマンの祓いもできたというものだろう。ジャージみたいなのを着て演じてたんだからよっぽどだ。でも観客にそれは何も関係がない。

だから商業的な要素は度外視した。自分の好きなものを作る。その究極がこのシン・ウルトラマンだろう。結局やりたいことやってあんまりウケないのは仕方ないことだ。そんな作品はそこら中にいくらでもある。その一つを生んだそれだけのことだ。

それでも、それはそれとしても人物描写が稚拙すぎる。庵野は精神的に、感覚的に人物を描くのに卓越した創作者だからこそ正確に表現するのに時間を要する。決して一時間数十分では収まらない。それできっと収まらなかったんだろう。なぜウルトラマンがかくも人類を愛したかはあんまりわからない。まずこの要素が欠けている。だから観客は感情移入できない。ウルトラマンへの愛はそもそも映画一本分では足りなかったのだ。

そもそも本来ウルトラマンは自分のせいで死んでしまった隊員のために命を与え、その隊員と一心同体となり地球の脅威と戦う。つまり"贖罪のための戦い"なのだ。それを乗り越えて初めて地球人への愛着が芽生えて、自分の信じる正義のために戦うクッソかっけえヒーローなのだ。しかし本作ではその描写が十分にされていないがために、「え、いつのまにそんなに人間好きになったん……?」となる。ゾーフィと同じだ。そのうえ、二連続で人類を誑かす異星人が現れて人類はウルトラマンに異議を唱えだす。本当に人類を守るヒーローか?と。それに対する回答も必要なのにシン・ウルトラマンは駆け足でゼットン戦を迎える。好きなのはわかるけども……。

ゼットンと言えばそもそもウルトラマン最終話でウルトラマンを倒してしまったホンモノのバケモノである。絶対負けない僕らのウルトラマンを倒したトラウマそのものなのだ。普通に考えたら絶対負ける最悪の相手。それが特撮オタク大喜びの"ゾーフィが使役したバケモノ"として描かれている。諸々理由あって少年誌ではゾフィーが使役したバケモノ、ゼットン大暴れ!という適当な文章が載っていたが、それを再現したところで何が面白いのか。それそのもの自体には何も意味がない。その表現の奥にある神髄を観たいのにまさかの"それだけ"。知っててもフーンだし、知らないなら何?だ。

それだけじゃない。連続して人類を誑かす異星人が現れる。わかりやすい怪獣と僕らのヒーローが戦うワケではない。そういう異星人が多く見られるのは"帰ってきたウルトラマン"や"ウルトラマンセブン"だ。作中半分以上がわかりやすい戦闘ではないのはかなりマイナスポイントだ。わかりやすいことはそれだけで価値があるのにそれを度外視して描きたいものを選んだ。だから僕には何も与えなかったわけだ。

きっとそもそも本作はあらゆる都合を持ってして、庵野の神髄も要素として取りこぼした作品だろう。でもとりあえず描きたいものは描いた。戦後を生まれてウルトラマンに夢を馳せた君たちはわかるだろう?という一種の"媚び"をしたがために大作足り得なかった。現に僕はそれを描写して、"知ってるけど、それで?"としか思わなかった。その奥にあるものが欲しいのに、その奥に何もなかった。それが本作と以前の作品を分かつ因子だろう。


……でも僕はシン・仮面ライダーにめっちゃ期待している。石ノ森章太郎自身本当の仮面ライダーを描こうとして四苦八苦していたのを知っているからだ。昭和ライダーの全部を観たくそじじいにとって期待しないほうがおかしい!結局庵野の作品に見出したカタルシスを観客は仮面ライダーに期待するしかない。個人的にウルトラマンは残念だったけど、ヒーローが仮面で素性を隠して血涙を流し戦う悲哀を描いてくれればと思う。それは作者のエゴに近い観客側のエゴかもしれないけど。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?