よしだなぎさんの写真展について

たまたまネットで見かけて、たまたま時間があったので行ってみた。
1人でと、息子と。
最初に行った時、違和感は確かにあった。
でもその違和感を自分では深く考えようとしていなかったのだけれど、その日Twitterでフォローしている好きな方が批評していて、なるほどと思ったというか、あれはやはりそこまで批評されるべきものだったのかと思った。
自分なりにも考え直して、一緒に行った息子にも言葉を噛み砕いてそれを伝えた。忘れないうちに、文章に残しておこうと思う。

私が感じた違和感。
求人雑誌を読む写真も何か”広告”を彷彿させて不快感があったし、
何よりキャプションであれほど被写体の方々との”距離の近さ”を書いていたのに、なんで個人写真が、「〇〇族07」とかの、属性と記号数字だけなんだろうって。そこが引っかかったところだった。
私がインドやマレーシアに行った時に気づいたこと。
「児童労働の子」「不法移民集落の子」に会ったんじゃなくて、「髪の綺麗なこ」「00ちゃん」に会うこと。数字や属性やその環境の中のその子、ではなくまずは「その子(人)自身」に出会うこと。十数年前の自分が恥じて心の根底にある部分とそこが違ったから、違和感はあった。

でも、写真自体はとってもインパクトがあって、こんな民族衣装もあるんだ、こんな人もいるんだ、という興味深さでその時は純粋におもしろかった。ただ、今になって思うとそれはただの「好奇心」でしかなかったのかなと。

人と人がリスペクトし合う関係になるには、好奇心だけではなれない。
好奇心の先にでも後にでも、”相手のこと、気持ちを理解しようとする”姿勢がないことには。理解できないのは承知の上で、どこかに共感できる部分を探したり、わからないことに対してそっと受け止める・尊重する・敬意を示す、それが大切だと思う。だから、好奇心って何かのきっかけには最適だけれど、時に人を傷つける武器にもなるんだってこと、改めて思う。

私が好奇心で見ていたあの写真たちは、イギリスの写真家の技法を真似ていることをこれまたTwitterで知る。そして、実は私は以前その分厚い写真集を図書館から借りて読んでいたことを思い出した。確かに、あの写真たちと今回の写真展の写真は、重さが全然違うわ…と。本の重みはそのまま、その民族に、文化に著者が向き合った結果であって、著者は大きなページに小さな文字で、各民族の生活様式や現状をかき、最後には多様性がなくなることを憂うあとがきがあったように記憶している。その写真を思い返すと、おどけやポージングが強調されているのではなく、純粋に美しかった。そして改めて吉田さんの写真と比較する。このポーズ、必要なのかな?ん?違和感…。そして、吉田さんが撮った他の作品、日本の芸人さんの写真をネットで見て愕然とした。全然、かっこよくない。世界観を作ろうとメイクやポージングは考えられているけれど、全然自然体じゃなくて、率直にカッコよくなかった。あぁ、今回の写真展、私は「アフリカ」という好奇心の色眼鏡をかけていたから気づかなかっただけで、かけていない人にはきっとあのアフリカの民族の人たちの写真もこう映っていたんだと気づいた。だからあんなに酷評していたんだと。

好奇心が人に向かうとき、(人じゃなくても遺産とか動物とかなんでもそうか)そこに敬意があれば知識へと変わる。
なんでだろう?どうしてだろう?そこから学ぶ。近づきたいから、知ろうとする。学ぶ。だから適切な距離感を作れる。

今回の写真展で何が問題だったかといえば、そこじゃないだろうか。
求人情報の写真など、まだまだ”好奇心”の写真でしかない気がする。そしてそれをそのまま”写真家”という肩書きで発表し、”アフリカの民族を紹介する”展示会だったから。改めてキャプションを考えると、ジェントルマン度という表記や、屁こき度などどいう表記は不要だと思った。
果たしてそれは、そうキャプションを書くことを、出会った彼らが是とした上でなのだろうか。彼らは、遠く離れた顔も知らない私たちに自分達のことをそう届けて欲しかったのだろうか。今回のアフリカの民族の写真や動画からは、彼らの主張や願いは少なくとも私にはわからなかった。
写真家として活動するということは、その人の主観が入ってしまうことは避けられないだろう。でも、好き・好奇心を超えて敬愛がなければ、誤解や差別に繋がりかねないんだと思った。

息子にはて、この気づきをなんといおうと思った。
小2の息子は単純に、「衣装の羽がかっこいい」「この衣装が好きだ!」「この仮面は笑ってるみたい」「この仮面は怖い」「なんでこんな模様を身体に書くの?」「このポーズいいね」そんな風に写真を見ていた。
私はその民族の方の居住地やキャプションの話をかいつまんで話したりした。
求人雑誌の写真にも「なんでこれ読んでるの?」と。「日本から持ってったんじゃないかな」と答えたけれど。
一番、言ってしまったなと思ったのは「屁こき度」のところ。キャプションを一緒に読んで小学生男子が好きそうなオナラのところは、ふふふって感じで2人で笑った。でも…
改めて、キッチンで夜ご飯を一緒に作りながら、見た写真展についてちょっと真剣なトーンで話題に出した。
「今日行ったところで、屁こき度見たいなのあったじゃん。あれ笑っちゃったけれどさ、考えてみるとママも写真を撮られてそんな風に紹介されてたら嫌だなって思ったの」
「あぁ〜そうだね」
「友達同士でさ、屁こいたじゃんー!って言って笑うのは、それはその人と仲良しだからだよね。仲良しだから許しあえることもあるし、仲良しでもダメだったりするよね。しかも、それをわざわざ他の人には言わないよね。だから、ママはあそこで笑っちゃったの、よくなかったなって思ったんだ」
「うん」
「あとさ、1人で写ってる写真あったじゃん。あの写真の題名がさみんな番号とかだったのが、名前だったらよかったのになって」
「〇〇(息子)はかっこいい写真撮ってもらってさ、誰かに紹介される時どんなふうがいい?日本人って書かれたい?それとも名前?」
「えー僕は、日本人でいいよ」
「なんで?」
「だって名前だと恥ずかしいじゃん!」
「えーそうなのー」
基本恥ずかしがり屋で人前に出たがらない息子の感想はさておき、そんな風に伝えた。どう息子に届いたのかはわからないけれど、普段から息子には「人の見た目について自分の中でどう思うかは勝手だけれど、それを相手にふざけて揶揄うようなことをしてはいけない」ということは(ママは嫌だよというふうに)伝えていて、なんとなくそのマインドはできてきている気がするから、間違えたなと思うことはごめんなさいというのも私の責任だと思った。差別とか、人権、とか、多様性、とかなるべくフラットな視点になるように伝えていきたいと思っているけれど(男だから〜とかは一切言っていないしそんなことないよと言い続けている)めちゃくちゃ難しい、毎日試行錯誤。いざ育児で息子に伝えようと思うと、自分が丸裸になるのを感じる。

さてさて、話を写真展に戻そうと思う。
今回の写真展を進めていって、民族の写真の方に無意識下の中でも違和感があったからか、初見でもどちらかというと私はドラッグクイーンの写真の方が印象に残った。
なぜならば皆被写体の人の「名前」で載っていたから。そして、被写体の彼ら(彼女ら)が主張する動画があったからだ。
民族の方の展示はキャプションも吉田さんの主観が全てなことに対して、それが違った。

何かの文化を残したい、こんな文化があるんだぞという人がいて写真が出来上がったのか。
ただかっこいい写真を撮ってくれ!もしくは代わりに何かをくれるから!という人がいて写真が出来上がったのか。
その違いは明白だったと思う。

どうやらそっちの展示の方にも問題がありらしいんだけれど(今はクイーンを失格になってる人が載ってるだとか)少なくとも吉田さんの変化を私は感じたように思う。好奇心だけだったのが、その先にある敬意だったりを、できる限り表現しようとする姿勢を見たように思う。彼女は同年代だし、私自身若い頃好奇心でどれだけ突っ走ってきたか。私自身今回もそうだけれど気づいてもいないことも、まだまだまだまだたくさんあると思う、だから偉そうなこと言えたもんじゃない。けれど、応援したいので、書いた。

全然関係のない話だけれど、私はあまりお金に興味がなくて、やりたいことをやっている人がかっこいい!パートナーには「別に稼ぎが多くなくていいから、同じ目線で育児や人生を協力して生きていたかった」という思いが、ずっとずっとずーっとあったんだけれど。だからずっと「私はそんなにお金を求めていないのに」と言い続けてきてしまった。でも、仕事を続けお金を稼ぎ続けてくれている夫にまずは感謝の気持ちが強くなった。実際に、何年生活をさせてもらっているのだろう、彼の日々の労働のおかげで。自分の価値観を押し付け主張することにこだわり、彼に素直に「ありがとう」を言えてなかったと思う。もちろん私の価値観は変わらないけれど、でも彼に心からありがとうを言うことは両立できる。矛盾していないことだ。変に意固地になっていた自分に最近気づいた。まずはこの10年に、近々しっかりお礼を言おう。

三十も半ばになって、去年今までの人生を全否定されるようなことがあって。
もっともっと、自分の中の許容と今まで頑なだった部分を見直していかなければいけないんだと思った。受け取るものも、発信するものも、
どんな小さなことも、見えるようになったからこそ丁寧にしていきたいと。
だから今回の写真展のことも、最低限息子にも伝えようと思ったし、文章に残そうと思った。まだまだ私自身が幼く拙く間違いだらけだとしても。途中でも、見にくくても、批判されても、残しておこうと思った、間違いでも気づいたらちゃんと謝るから、考えるから。
流されていることも多いけれど、流されずに踏みとどまれるものも自分の中にあると信じて、踏ん張って生きていきたい。

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