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〈キューバ紀行8〉間接キッスと、フラッシュバック。

 間接キッスって、なんだろう。

 唇を合わせ、舌を絡ませると、互いの皮膚と唾液に付着している常在菌が混ざり合い、ミクロのレベルで情報を交換する。結果、二人の距離は近づく。これを間接的に実施する神聖な行為。それが間接キッスだ。
 私はわりと潔癖な方で、これが苦手である。
 人が口を付けたものは絶対に口にしないし、エレベーター内では呼吸を停止している。そんな私の潔癖バリアーは、キューバでいとも簡単に突破された。

 私の利用する民泊の近くに、誰でも使えるバスケットボールコートがある。そこでバスケにいそしむ青少年を、ぼんやり見ていた。
 試合中、長身の浅黒い肌の少年が私の方を見て、動きを止めた。目が合い、何か叫びながら私に近づいてくる。
 えっ、何? 怖い。怖い。どんどん近寄ってくる彼に対して、私の時間が止まる。大声で何かをまくしたてている。困惑。何か、気に障ることをしてしまったのだろうか。見てはいけなかったのか。しかし見ていたのは私だけではない。近所のおじさん、おばさんも一緒に見ていた。
 なぜ、私に向かってくるのか。

 中学の時に、似たような場面があった。近所の廃工場を探検していた時のこと。
 私は廃工場の敷地まわりに張り巡らせてある金網のそばを歩いていた。金網の外側は狭い裏通り。そこへ4台の自転車が近づいてくる。
 下品な絞りのカマキリハンドル。赤や紫のティーシャツに、寅壱のスーパーロングより太いボンタン(変型制服ズボン)。赤い靴下。パッキパキの金髪。ヤンキーだ。奴らは無茶なことをするためだけに生きている。
 今は金髪どころか緑やピンクの髪も珍しくはないが、「特攻の拓」が熱狂的人気を博していた1992年。茶髪は気合いの入ったヤンキー。金髪は、頭がイカレた極悪人だった。
 金髪であるということは、いつでも生き死にの喧嘩をはじめるということであり、夜の校舎で窓ガラスを壊してまわるということであり、中学を卒業したら準構成員になるということだった。そういう時代だった。

 何をしでかしてもおかしくない金髪が4体、近づいてくる。絶対に良いことは起こらない。
 一秒でも早くそこを立ち去るべきだが、足が動かなかった。金髪の一人と目が合っていたからだ。
「オイ、なにしてんねん」
 目の前に来た金髪が言う。金網越し、タバコの臭いがした。胸に不安が広がる。
「え、なにが?」
 ビビっていると気づかれないように、虚勢を張る。
「えぇ~、なにがぁ~?」
 金髪が私の言葉をふざけて繰り返す。後ろの3人が自転車のハンドルにもたれかかりながら、ニヤニヤ嗤っている。私も一緒に笑った。もしかしたら優しい人たちかもしれない。
「おまえ、なに調子乗っとんねん」
 急にすごまれ、淡い希望がしぼんだ。やはり、優しい金髪などいない。
「なんでタメグチやねん」
「すいません」
「カネ出せ」
 話の展開が激しい。
「あんまり持ってないんですけど」
「ええから出せや」
 サイフを取り出した。所持金45円。シバかれるかもしれない。
「おまえ、45円て」
 4人はゲラゲラ嗤っている。結局45円は巻き上げられ、シバキは免れた。

 絶賛フラッシュバック中の私の前に、彼が来た。デカい。ひょろっとしているが185センチはある。汗だくで目をギョロつかせ激しい口調で何かまくしたてる。
 その頃は脳内吹き替え機能はおろか、字幕スーパーも覚醒していなかったので身振りを観察した。
 彼は人差し指を突き出している。指の先には、私が半分ほど飲んだミネラルウォーター。
 「これ?」とジェスチャーするやいなや、彼はペットボトルをひったくり、蓋を開けて飲みはじめた。

 間接キッス。
 彼の唇から水がこぼれ、頸をつたって汗と混じり、タンクトップを濡らしていく。私はあっけにとられてそれを見ていた。
 彼は水を半分ほど飲み、礼(らしきこと)を言うと、ペットボトルを持ったままゲームに戻っていった。
 驚いた。どこの誰だか分からない人間、しかも人種も国籍も明らかに違う身許不明の中年男の飲みかけの水(ぬるい)を、躊躇いなく美味しそうに飲んだのだ。
「すごいな」と思ったが、まわりのキューバ人たちは何も反応していなかった。キューバでは、よくあることだった。
 足りない物は、持っている人に分けてもらう。そこに国境も人種も関係ない。これがキューバスタンダードだ。

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