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つまり、そういうことだ⑳

こんなことは、宗教や哲学の世界、ちょっと気の利いた自己啓発セミナーでは、ずっと前から教えてくれている。
問題はこんな大切なことを、ちゃんと根っこから分かるように現代の言葉で「一般化」させて教えてくれる人は、ほとんどいないこと。そこまでは面倒を看てもらえない。
教える側に面倒を看る実力、教わる側に分かる実力(そもそも興味を持つ感性)が無いのだ。

「実力」とは、残酷なほど現実的な言葉だ。
実の力。実際の影響力。そして実際的に受けとめて活かす力。
実力とは、相互の関係に宿るものだから、相手だけのせいに出来ない。
なぜ実力が出ないのか。出せないのか。
「存在の存在」、つまり相手の「本当のところ」を置き去りにして、単純化された小さい側のフラクタル階層の事象にとらわれ、どこかにアバターの都合や文脈による脚色を織り込ませるから、「分かるもの」が分からなくなる。
私が「分からず屋」だったことは否定できないが、それにしても、あんなにいろいろ体験してみたのに、めっぽう分からなかった。

ところが「こんなこと」を考えなくとも、疑わなくとも、実験したり検証しなくとも、自由に幸せに、苦労を苦労とも思わず、たいてい前向きな態度で、他者へ貢献する生活を喜々として送っている人たちも僅かながら、いる。この人たちは、感覚として掴んでいるのだ。
何も考えなくとも自然に、存在の遊戯を楽しんでいる。こういう方々に私が言えることは、何もない。
収入が少なくとも、学歴が低くとも、運動神経やファッションセンス、身体的特徴が特殊であろうとも、いや、そうであるなら尚更、その人たちは「ゲームの達人」なのである。

達人ではなく、素直にゲームに興じられない、「これやって何の意味があるんですか?」的な疑問(反応)を秒単位で持つように呪いをかけられた私のような者は、ゲームのルールを探しながら納得のいく生き方を追い求めるしかないのだろう。
それが正しいし、楽しいと信じて。

私は自己の認識を、その枠組みを何度も壊してはつくりなおしてきた。
ときには歪(〓いびつ)な形になったが、範囲が広がって行くと、漂泊的に伸びた認識の尖端と尖端がつながり、囲んだ領域すべてを認識できるようになった。
窓ガラスに打ちつける雨粒が、垂れながら融合し、大きな水たまりをつくっていくように。

(つづく)

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