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ある日、最愛の子供たちを妻に連れ去られるまでを走馬灯のごとく語る著者紹介

 山泊リョウ 昭和五十三年、大阪府枚方市出身。

 大学卒業後、円谷プロでウルトラマンの中身、東京FMで使いっ走りなど職を転々とするが、一念発起し完全歩合制の訪問販売で起業。
 平均睡眠三時間で日に三〇〇軒のドアを叩く(アポ無し飛び込み即決即払い)生活を二年半つづける。しかも極貧で風呂無しトイレ共同4畳半で家賃一万三千円のアパートに住む。
 起業といえば聞こえは良いが、その実、ネズミ講をギリギリ合法の会社にしたような、スタッフ全員、個人事業主のオニ営業会社だった。
 死ぬほど飛び込み営業し、超人的即売スキルを身につけたと思ったら、交通事故で頭蓋骨骨折・脳挫傷。
 「余命三日」を宣告され、廃業。

 死ななかったので、株式会社リクルートに就職。入社一年目から二年連続営業成績日本一を受賞。
 終わりのない孤独なレースに虚しさをおぼえ、三年目を迎える前に「tomorrow never knows」を口ずさみながら退職。
 適当な退職の理由が思いつかず「俳優になる」と、思いつきで吹いていたら、それを真にうけた親切な方から映画プロデューサーを紹介され、ある映画のボランティアスタッフになった。
 「プロモーションのため、オーディションに大量の人を集めろ」と厳命され、ロケ地・新潟に単身乗りこみ一週間で、六四三人を集める。プロデューサーには「もう、十分」と言われたが、その後も勝手に新潟各地をまわり、二ヶ月で合計一五〇〇名を動員。
 活躍(暴走)のご褒美として映画「降りてゆく生き方」(主演・武田鉄矢)にて、準主役に抜擢。東京国際映画祭のグリーンカーペットを踏み、壇上から母親にサプライズ報告。

 その後、映画にエキストラで参加した女性と結婚。
 交際が始まる前は独身だと思っていたが、この人には夫と子供がいた。「もうすぐ離婚する」と言いながら、なかなかしなかった。やがて私との間に子供を授かった途端、彼女は離婚。
 複雑な思いを噛み締めながら、新潟市での結婚生活が始まる。

 映画のプロデューサーとは「音楽性の違い」から物別れに。芸能界に自分は不向きであると悟り、一作かぎりで俳優を辞めた。

 映画での活動を通して懇意にしていた当時の新潟市長から、農家に後継者をつくるプロジェクトを依頼され、無肥料無農薬のコメづくりを始める。
機械も農薬もカネが無くて買えないので、素人100人で会費制の田植えをする合コンを開く。
 さらに参加者に「自分で蒔いたタネは、自分で刈りとろう!」などと呼びかけ、その場ですべてのコメの販売予約をとり、田植えの時点で販売も完了するビジネスモデルを構築。
 草取り、稲刈りも合コンで行い、収穫だけでなくプロセスも現金化するエンタメ型稲作を行いながら、中小企業のコンサルティングや精神障害者の就労支援に従事。

 はたから見れば楽しそうでも、本人は結構しんどいもので、仕事は楽しいが、家庭は苦しい。子供は天使、妻は閻魔。俺の人生、こんなもんかと嘆いていたところにリクルート時代の先輩の呼びかけで、新事業立ち上げることに。
 家族を連れて東京へ移住。都会暮らしに憧れていた妻も、快諾だった。

 新事業を立ち上げるため、寝る間も惜しんで働いていた。その間、妻は毎日のように出歩いて遊んでいた。
 ある日、妻は私に黙って、四歳の娘と生後二カ月の息子を連れ、通勤ラッシュに揉まれながらディズニーランドへ遊びに行った。深夜の帰宅。母親に振り回されて疲れ果てた子供たちの顔。憮然とした顔で私が用意した夕食を当然のようにむさぼる妻。怒りと絶望に苛まれた。あれは一生忘れないだろう。
 しかし自分は起業したばかりで、子供の世話まで手が回らない。
忸怩たる思いでいたある日、家に帰ると妻と子供たちがいなくなっていた。
 連れ去り。
 上京してわずか一カ月のことだ。

 その後、音信不通・完全断絶から二年半かけて奪還・交流再開に漕ぎつける。
 調停や弁護士経由のアプローチは、全て不毛。司法を全て無視して、自力凸面会がいちばん効果があることが、経験から証明された。

 日本では、年間十六万人の子供が連れ去られており、片親疎外で苦しむ親子があとを絶たない。この機会に、子供の連れ去り問題は日本の司法と警察機構がラチベン(拉致支援弁護士)に弄ばれている事実を暴くことにした。

 片親疎外、子供拉致問題は、俺たち「奪還父さん」が終わらせる。

 現在、再び断絶中。
 文筆とエンタメで、すべての子供たちを奪還する。
 二児の父。

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