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へっぽこぴーりーまん書紀〜余談〜ボクの生い立ち①

(→本編から)

ボクの生い立ちを語っていなかった。
ちょくちょく余談として、語っていこうと思う。
簡単に書いておこう。
1983年生まれ。大阪市出身。下町育ちである。長男。共働き家庭。公団住宅に住む。豊かな暮らし向きではなかった。
Mizunoto-iは癸亥(みずのとい)からで1983年の干支から取った。

幼少期

幼少期は引っ込み思案なところがある子供だった。母が虚弱体質、かつ父(ボクからみた祖父)にネグレクトされて育ったこともありその影響が子育てに出ていたと思う。
まず、料理はしっかり食べさせられた。これは良いことで大病しないで育った。
しかしネグレクトされた母はその影響で子育てに大きく下記の特徴があった。

  1. 自己肯定感が低かった。

  2. コミュニケーションで苦労→父(祖父)からネガティブな言葉を掛けられた影響からか自信がなく、不安だったのだと思う。

  3. 細部へのダメ出しが多い→知らず知らず自分が父(祖父)から受けた仕打ちを引き継いでしまったのだと思う

ありがちかもしれないが、父親は子育てにあまり登場しなかった。このため母親(ルーツは祖父)の価値観の影響を強く受けやすい環境になってしまったと思う。
祖父は多分、今どきの言葉で言うとコミュ障の一面があったと思う。

ボクはもともと空想好きでぼーっとすることが多い子供だったと思う。幼い日の写真は何となく焦点が定まらないような顔が多い。
ぼやっと空想に耽りたいところを、ムリヤリ親「〇〇させたい」の枠に嵌められるような毎日だったと思う。

きっと、親としては「自分がこうされたから私は!」というようなエゴが強かったのだろう。
母親と一緒にいてもなんとなく気が休まらなかった。
そんな空想好きな自分を受け入れてくれる幼稚園の先生が好きだった。

小学生時代

下町の公立の小学校に通った。
中々友達ができにくい子供だった。
何となく友達に対して警戒して、壁を作ってしまうところがあった。
自分から歩み寄って友達を作れない。
なぜか男の子が苦手だったかな。
距離の近い「オレ」「オマエ」の関係が作れなかった。
「オマエ」ということに敬遠するような感情を覚えていた。
町で友達を遠目で見つけたら、避けたりすることもあった。

目立つことでの有能感

反面で学級委員をやったりした。
周りがやりたがらなかったのが、大きな要因なのだろう。手を挙げたらなれる状態だっただから。
しかし、ボクはそれで自分が優秀だと勝手に勘違いしたところもある。

一方で、壁は作ったままだった。友達を家に招いたり、「遊ぼう!」と自分から誘うことをしなかった。

イジメと担任の先生への密かな恋心

4年のとき、しこたまいじめられた。
上靴をバケツに放り込まれたり、リンチされたり。今から振り返ると、関わりが少ないのに偉そうにしているボクを気に食わなかったのだろう。
そのときは、ボクは本当に辛かった。
住んでた団地の7階の部屋から地面を眺め「ここから身を投げたら死ねるのかな。」
と思ったことがある。

その反面矛盾するのだが、いじめられていることに対して1%くらいだが安心感のような感情を抱いたこともある。
「ああ。相手にされているな」と。ついでに、4年生のときの担任の先生が綺麗な人で。
普段ジャージだったのだが、帰宅時口紅を塗り直し、しゃなりとジャケットとスカートで着飾った先生の姿を時折校門で見ることがあった。
ハイヒールのなる音。しろくスラっと伸びた脚。
子供ながらにオトナの色香に、目が釘付け。完全に見とれてしまい、胸がときめいたことがある。

その先生はいじめに対して頼りない指導だったのだが、自分のことで怒ったりしてくれているときに悲しいという反面で、微妙に嬉しいといった感情を持ったり。
居残りが好きになってしまったり。

何となく担任の先生のことは、親にいじめのことを話すときにも悪く言わなかった。
ボクの異変からイジメのことを親が知った。親は学校に抗議、申し入れをした。

その抗議するときも「このことで、ボクと先生との関係が悪くなったら嫌だな」と少し的外れなことを考えていたことを覚えている。

まあともすれば変態と言われるかもしれない。しかし、辛いいじめの記憶の隙間にそんな淡い先生への「焦がれる」ような気持ちが混じっているのも事実で。
そんな、どこか狡さと、変な計算高さ、そんな屈折した感情を自覚できる変わった子供でもあったとおもう。

クラス替えのあった小5進級を機にイジメはなくなった。その先生も異動になってしまった。

内弁慶〜壁を作って

いじめられたことそのものより、周りが見てみぬふりで助けてくれなかったのが辛くて。
人を簡単に心底から信頼できなくなった。
小5以降。より警戒して「人を評論、評価する」クセがついたように思う。
「適当に人と合わせつつ、人と壁を作る」ことをし始めたと思う。
無難にはなったかもしれないが、更に友達はできなくなった。
小6修学旅行のとき。「仲良い人と班を組んでいいよ」と言われたときは困った。
なんとなく話すことの多い人に「入っていい?」と聞いて同じ班になった。
なんとも微妙な空気を覚えている。

演じる自分と、そうでない自分のギャップに自分自身葛藤していたと思う。
ホンネを言えないことが、苦しくて。
とにかく、自分の事が嫌いだった。
そのストレスから通っていた学童や、家庭では暴れたりした。
クラスに片想いの女の子がいたが、自分の事がキモいと思い自信が持てなかった。
放つ言葉が カタカナのようになって。上手く伝えられなかった悔しさなどが印象に残る。

外ではひたすら「大丈夫だよ」と"強がりの汽車”を走らせる毎日。
学童の先生は、母親のように親身に向き合ってくれた。この人が居なければボクはダメになっていただろう。
学童のことについては、また別の機会に書きたい。
習い事や、何かに打ち込む環境がなかったのも負の意味で大きい。
何かをやろうとすると、母親から「あんたには無理や」と決めつけ、ブレーキを掛けられたことも大きかった。

不完全燃焼


ボクは不完全燃焼を起こしていた。
親の財布からお金を獲ったり、非行の芽になるような行為を働いたりした。(都度バレてこっぴどく怒られたが)
それでいて、作文などには夢やら仲間やらについて書く。裏表のある、影の強い児童だったと思う。
背景には「この世界に対する漠然とした無力感」があった。何かを信じたいのに信じられない辛さがあったように思う。

長くなってしまった・・・。今回はこの辺で筆を止めたい。
また、青少年時代のことはちょくちょく余談として書いていきたい。
(→本編に続きます)


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