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へっぽこぴーりーまん書紀〜2社目編 東京編vol.10

JBCホームセンター

東京の3年目。ボクは全国チェーンのJBCホームセンターを担当することになる。
JBCは北は北海道から西は九州地区まで網羅するホームセンター。チェーンの規模としては非常に大きかった。
ただし、PB(プライベートブランド)主体の販売と、厳しい粗利基準。ボクらNBメーカーの出る幕はほぼ無い。
取引が拡大する要素は少なかった。
また、問屋担当がキング以上の曲者だった。

問屋担当 川西

JBCホームセンターの問屋担当は川西だった。川西は50代。昭和気質の押しの強い営業マンだった。
押しが強いだけであれば良いのだが、ホームセンターキングの担当増田と同じく、メーカーから値引を引き出すことに手段を選ばない。
JBCホームセンターは大きな問題を抱えていた。

処分費の問題

ボクらメーカーは、半年〜1年に1度。商品の色替えなどリニューアルがある。
このリニューアルのとき、商慣習上リニューアル前の廃盤品の処分費を補填(補助)することになっていた。
JBCホームセンターも当然この処分費の補填の対象となっていた。
JBCホームセンターは、先に述べたPB政策がありながら売れ筋商品だけは辛うじて導入されていた。
とはいっても、JBCホームセンターは全国に多くの店舗があるため導入数は数千個単位になる。
この商品の改廃のときの、処分金額が異様に多いのがJBCホームセンターの問題になっていたのだ。
なかには、導入数<処分数となり、逆転しているケースがあったのだ。
この処分費の取りまとめを行っているのが、川西。
ボクは川西と処分費を巡って交渉を進めることになる。

川西氏の値引き

最後まで認めなかったが、川西氏は処分費を販促費に転用をしている可能性が濃厚であった。
JBCホームセンターのPB戦略によって苦戦していたのは、卸問屋営業の川西氏も同様だった。
値引きを引き出すため、川西氏はメーカー営業のボクに執拗に値引き交渉を仕掛けてきた。
あまりにも執拗で、ボクはプレッシャーを常にかけられることになる。
頻繁に電話が入り、携帯電話のバッテリーは、毎回の川西との通話後半減するくらいのレベルだった。

足利への相談

課長の足利にも相談をしたが、なかなか会社の建前論での回答しか貰えなかった。
客側(川西)が求めている条件と、会社側として出せる条件に隔たりがあり中々埋まらない。
会社としても規模は大きいが、処分費の状況や販売施策が合わず足利は、二の足を踏んでいたのだ。かつ影響度も大きく無下にもできない。

課長の足利自身が社内調整がそんなに得意ではなかった。
ボク:調整下手×課長:調整下手でモノゴトは全く前に進まない。

JBCホームセンターは規模は大きいものの取り組み顧客にはなっていなかった。

何だろう。ボクはあまりにもJBCホームセンターへの販売環境が厳しいと感じていた。
打開策を見いだせず、諦めてしまっていた部分もあった。

板挟み状態は、ボクのストレスを更に増大させる。

当時はまた、商品の欠品が慢性化していた。
全国地区にまたがるJBCホームセンターは、各営業拠点に個別に売上が付く。
しかし、各営業拠点の欠品対応が追い付いておらず全国対応であるボクが調整に追われる。

僕の交渉力の無さもあったが、欠品対応に非協力的な地区もあり頭を悩まされる。
人を動かすことに難しさを感じる。

労多くして功少なし…。
そんな毎日を送っても仕事は評価に繋がらない。
袋小路というか、閉塞感が強い毎日。
賽の河原の石積みのような気分に陥る。無力感で鬱屈した状態になりつつあった。

東京に移動した当初のフレッシュな感じは、完全に消え失せていた。

そんな中、更に追い打ちをかけるように事件が起っていくことになる。
(→次回に続きます)

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