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小学校の時のいじめ体験と、日本

僕はそんなに昔から人前での発表などを苦にしない子供だった。 

大きな声で音読したり、自分の意見を人前で発表することには全く抵抗がなかった。

逆に言うと、あまり自分がどう思われているか。に無頓着だったと思う。

僕から見ると、赤面して小声で音読したり、人前で大きな声で歌えない人の心理はよく理解できなかった。

なぜ発表一つにそんなに恥ずかしがるんだろう。

なぜ意見さえ言えないんだろう。

もしかすると本音を包み隠さず言い、意見を言いたい僕の体質はどちらかといえば欧米的なのかもしれない。

変なことがあれば、先生にも意見をしたし、同じ意見の人を見つけ署名などを行ったこともある。

とにかく、変なことに黙ってることができない子供だった。

社会人になり生きづらさを感じたのは、本音を堂々と言うとバッシングされる場面が多かったからだと思う。

大学生のときは本音で人と繋がったのだが、一転本音を出せばバッシングされ、意見を出すのを押さえろと言われ。

どんどん自分の良さは失われたと思う。

周囲の人のギャップや違和感を人生で初めて感じたのは、小学4年くらいのときいじめられたときだった。


いじめた相手にではない。傍観しかできない周囲に対してだ。

僕は6人くらいのグループにいじめられたのだが、それをクラス内で見ている人は多数いたのに、何も言わなかった。

まるで置き物かのように。止めもしなければ、慰めにも来ない。先生に告げ口もしない。

結局、いじめが問題になったのは僕が親に伝え、親から学校に話が行ってからだった。

親が騒がなければ、無かったことになっていたかもしれない。

一人ひとりは話せるし、全く悪人ではないのだが、無視をきめこむ集団の空気に対して僕は鉛のような憎悪を感じた。

「コイツらいったいなんなんやろ」

その感覚を久しぶりに思い出したのが、このコロナ騒動だ。

変な感染対策に従い、いつでもどこでもマスクをし続ける。
異論や警鐘をまるでないように扱うこの世間の空気に僕は小4のときの感情と、教室の風景を思い出した。

なぜか、この国は意見を言うことを恥ずかしがる風潮がある。

なぜか、この国は様子を見て人と違うことをやることを憚る風潮がある。

まぁコロナがなくても元々短所としてある、日本の特徴が浮き彫りになっただけなのだろう。そう思う。

失われた30年だとか、40年だとか言われる。

そうではなくて、この「変なことを変だと言えない」「意見を表明することを怖がる」

ある意味卑屈な日本人の体質が、長く日本を低迷させてきたんじゃないかなと思う。

例えば、消費税を上げるたびに景気は悪化するのにやり続ける。NOが言えない。

税金を取れば取るほど国民の生活は悪くなる。少子化する。なのにNOが言えない。

既存の政党に投票し続けても世の中良くならない。なのにNOが言えない。

多くの人が感覚ではわかってるはずなのに、駄目だと言えない。意見を表明しない。

この積み重ねでジワジワと日本は悪くなってきて、取り返しのつかないところにいこうとしてるのではないかな。と思う。


そして、その原点は堂々と人前で発表出来ない。意見を交わせない。今の大人が歩んできた、学校教育の病理に行きつくのかなと思うのだ。









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