脱資本主義の教育論
ある小学校の全校朝礼で実際にあった出来事。 ある先生がスピーチのなかで、
「タイム・イズ・マネー」と言い放った。その台詞で小学四年生の女の子は
思わず笑い声を上げた。周囲にも笑いは伝染し、先生のスピーチは気の抜けたものになった
その後、女の子は呼び出され、先生に酷く叱られ、女の子は泣きながら教室に帰った。
この女の子は何に対して笑ったのだろう。 先生の英語の発音?あるいは友情や絆といった綺麗事を語る先生の本音に面白さを感じたのか? あるいは時間の大切さをお金に換算して伝えるしか術を持たない大人を笑ったのか?
何れにしろ、先生のスピーチに対して何らかの反応を示すということは、その話しを受け取る生徒の権利として認められるべきだろう。 たとえそれが失礼な振る舞いであったとしても、そうさせてしまう要因がその話にあったのだ。
本気の言葉は心に刺さる。
そうでない言葉は上滑りする。
「タイム・イズ・マネー」は、先生の言葉ではなく資本主義からの借り物の言葉に過ぎない。
女の子は先生が「時間はお金」と本気で思ってないことを見抜いたのだろう。
「国際化の時代だから英語を」
「効率的な方法を身に付けよう」
昨今の教育者や親の言葉は、教育ビジネスのキャッチコピーと違いない。それらは誰でも言いそうな匿名の冷たい言葉なのだ。
それに対して子供達が欲しているのは「人生の言葉」だ。
大人達が生きてきたなかで、強く心を動かされたことを伝えるだけでいい。
それは個人的であるが故に多様であり、経験的であるが故に心に響く。
ある時間に、相手から自分へ伝えられる特別な言葉。そうした言葉の贈り物であれば、子供達は本気で受け止めてくれる
「資本の言葉」は魂を支配する。
「人生の言葉」は魂を豊かにする。
だからこそ資本主義が人間の魂までも包みこむ現代において、教育の第一歩は私たち大人が「人生の言葉」を取り戻すことから始まる。
※2024年9月27日の長周新聞より抜粋