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カタチなきモノ

共有されることもなく、存在を表すための名もなく

 目に見えて容易に比べることが出来、その価値が社会的な評価基準として明示されている価値あるものがある。

 一方、本来は価値やニーズが有るにも拘わらず、共有されることもなく、言い表す言葉さえない場合もある。
 共有可能な言葉と云うカタチを与えられることなく、その存在を共有し、区別するための境界を定めることも適わず見過ごされていく。
 見過ごされていく存在である。

見過ごされていく存在

 表現され共有され、言語化されることでカタチなき存在はカタチを得ることで存在を認識できるようになり、容易に共有されるようになり、焦点化のための区別を可能にする境界を定めるに至る。
 内に仕舞い込んだままでは気づかれず、共有されることもなく、誰かが言語化してくれるのを待つばかりとなってしまう。
 ありふれた言葉で、その存在を現そうとしても、ありふれたカタチに掻き消され、カタチなきモノは、その存在すら掻き消されてしまう。
多様性の否定である。

多様性の否定

 多様性の否定は、度々、社会と個人との間で生じる。
しかし、個人が自分自身に対して同様の認識をしてしまうことも多くある。
 ステレオタイプや理想や目標とする対象と自分を比較して、自身の持っている特性や強み、環境や歩んできた人生から得られた経験をありふれた言葉やカタチ、表現でその価値を覆い隠してしまう。
 社会と個人なら、個人が表現、発信をすることで、社会に声が届くかもしれない、だが、内なる声は言葉を発して知らせてはくれない。
言葉にする、表現する意味

言葉にする、表現する意味

 内に秘めたままでは、そのカタチは明確さを欠き、比較や判断の精度を低下させることも多く、何より、共有されないことのリスクも失われる価値も多い。
 だが、表現することで共有が促進され価値やニーズとして、その存在を明らかにすることが出来るのだ。
 しかし、適切な言葉、表現を有しない場合、どのように表現すれば良いのかが課題とも云える。
 ならば、多様な表現のカタチ、手段や役割りを、機会を創り出せばいい。
焦点を当て、比較し道しるべとなるカタチを創ることから…

坂の上から見る風景 




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