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数学の道に進まなかった理由 後編

写真は先日、家の近所を散歩していた時に撮影したものです。あんまりに天気が良いのに外出自粛は堪えますね。もちろん人ごみになるような場所には行ってませんが、あまり家の中が快適じゃないということもあり、不要不急でも散歩やスーパーの買い物など、1日1回外に出るようにしています。

さてちょうど関連本を読んでいる最中にABC予想を解決した望月さんのニュースに驚いたのが先週。私は、数学が好きなのですが、それでも数学の道に進まなかった理由について書き始めたところでした。今週はその続き。

「悪魔的な問題」の存在

(前回までのあらすじ)高校生の時の読書感想文で「博士の愛した数式」を読んだ私は、オイラーの公式のそこはかとない美しさに感銘を受けて、さらに数学に興味を持つようになりまして、その著者である小川洋子さんと、数学を研究されている藤原正彦さんの対談をまとめた新書を手にとりました。

本の内容については大半を忘れていましたので、先週note記事を書いた後、すぐに電子版で「世にも美しい数学入門」を購入しました。

ちなみに私は電子書籍はhontoを使っています。hontoは「紙の本と電子書籍は敵ではなく仲間です」をスローガンに、ジュンク堂や丸善と連携して展開されているサービスで、提携書店で購入した本と電子書籍を同列にリスト化、仮想本棚にて閲覧することができます。これは紙で読みたい、と思って買ったものの、やはりデータ版も欲しいとなれば、一部対象の本については、データ版を半額で買うこともできるため、両刀使いの人にとってはありがたいサービスです。

話が逸れてしまいましたが、この本を久しぶりに読んでみると、俳句と数学は、制限がある中でキレイにものごとの本質を捉えるという点で共通点がある、という話や、素数の中に何か宇宙の秩序みたいなものが隠されているのではないかという洞察など、藤原さんの考えを小川さんが引き出しながら、2人で美しい日本語でまとめていく、というような構成で非常に読みやすいし、明瞭な感じです。

あるところまでは「数学の美しさには必然性がある」というスタンスで話が進んでいき、宇宙の真理に近づいていくようなワクワク感があるのですが、「ゴールドバッハ予想」という話題から、思わぬ方向に話が進んでいき、奈落の底に突き落とされます。

「ゴールドバッハ予想」とは「6以上の偶数はすべて2つの素数の和で表せる」というものですが、こんなに(見た目が)簡単な命題が、未だほとんどの手がかりもなく、人類(というか一部の数学者)を悩ませている、ということだそうで、そこから小川さんが「この予想は正しくないんじゃないかという方向にいかないんですか?」と質問します。

そこで藤原さんがある定理を紹介します。

オーストラリア人のゲーデルが1931年に「不完全性定理」を証明しました。数学は不完全だ、といういやーな定理を発見したんです。史上始まって以来1931年までは、全ての人は数学上の命題はすべて正しいか嘘っぱちかどちらかど信じきっていた(中略)この人がやったことは、簡単に言うと、正しいとも正しくないとも判定できない命題が存在する、ということを証明しちゃった。(中略)ゴールドバッハの問題がそれである可能性もある。

さらに、小川さんが、「じゃ、ゴールドバッハの予想が不完全性定理に出てくる、性悪な命題であるということを証明できるんですか?」と切り返し、藤原さんがこう続けます。

小川さんって質問が鋭いですね。(中略)小川さんの質問は、ある命題が真偽を判定できない命題であるかどうかを、あらかじめチェックする統一的な方法があるのか?(中略)アラン・チューリングが、これにアタックしたんです。そして彼はそういう方法がないということを証明した。それで一躍世界的になった。彼がコンピューターを発見する前にです。

と。今、原文をままコピーしてみましたが、この箇所を高校生の時に読んだ時の衝撃を思い出しました。数学の中には、そもそも人類がどうやっても正解にたどり着けない(近づくことすら許されない)問題が在るという事実と、その事実を他ならぬ「数学」で証明しちゃった、というゲーデルとチューリングという数学者の才能に絶望しました。もっというと、自分が産まれるずっと前にその事実を人類が悟ってしまっている、ということにも、打ちのめされました。もう人間に解決できないことだらけ(少なくとも1つや2つじゃない)なんだ、と思いました。

小川さんはこのような問題を「悪魔的な問題」と命名していますが、その悪魔に取り憑かれる可能性があるとすると、純粋に数学の道に進むのは「本当に自分の魂捧げる」くらいでないと意味ないし、そうであっても意味ない結果に終わるかも知れないなら、面白半分で数学の道に進むのは違うな、と思ったのです。

論理学入門

結局、私は紆余曲折して建築学科に進みました。高校数学はそれなりに得意でしたが、大学の一般教養科目を受けるにつれ、大学に入ってから心底数学の道に進まなくてよかったと思っていたのでした。

必修科目で言うと、微積分や確率論など高校数学の延長のようなものは何とかついていけましたが、代数学は初っ端からバッチリ躓きました。担当の先生がいかにも大学の教授(今から思えば、准教授か助教くらいだったのかもしれない)で、一般論でドンドン話を進めていく(だいたいが定義の説明と定理の証明)ため、黒板に書かれた大文字のAが行列なのか、スカラー(いわゆる数字)なのかも判別できないまま、90分授業で黒板3周位の板書が淡々と進んでいく授業は苦痛でした。なんとか、出回る過去問を頭に詰め込み代数学Aの単位は取得できましたが、代数学Bは取れなかった記憶があります。

一方で私は「ゲーデル」の定理が何を言っているのか、ということがわかるかもしれないと思い、必修科目ではない「論理学入門」を受講しました。高校でいう数学Aの十分条件・必要条件とかの延長戦という感じでしょうか。テキストはかなり難しかったですが、結局テキストの3分の1くらいまでしか進まなかったこともあり、何とか単位は取れました。しかし、やはり代数学と同様、高度に繰り広げられる抽象的な世界はなかなか、馴染みがないものでした。

今となってはほとんど内容を覚えていないのと、そのあとの基礎論だか、応用編だかの授業は受講しようとすら思わなかったところから考えるに、ゲーデルの不完全性定理に対する興味は徐々に薄れていったのだと思います。

数学ガールで再挑戦を試みる

大学に入ってから、(なぜその道に進んだのか?と今でも不思議なくらいに)当時全く知らなかった「建築」の世界が広がっていき、「数学」の世界は所詮「ゲーデル」を理解できないレベルだというところから距離ができていきました。

しかし、数年に1回ある世界をひっくり返すような予想の証明がニュースに出るたびに、数学に対する憧れを思い出すところであります。一方で、「ポアンカレ予想を解いたグリゴリー・ペレルマンが、フィールズ賞を辞退した」「ABC予想を証明した望月さんは、海外数学者とのコミュニケーションを取ろうとしない」などセンセーショナルな部分だけが取り上げられていくうちに、やはり数学者は相当の天才かつ変人なのだろう、という気にさせるのは、マスコミのやり方だろうが、そういったエピソードを聞くことで、自分は数学の道に進まなくてよかったと胸を撫でおろすところでもあります。

大学4年だったか、修士1年のときだったか、結城浩さんの数学ガールシリーズの「ゲーデルの不完全性定理」の巻を本屋で見つけました。数学ガールは「物語調でわかりやすく数学の本質のおいしいところを説明してくれるらしい」と他シリーズを読んだこともないのに変な期待をして、再挑戦できるチャンスだと思ってその本を買いました。

始まって7割くらいはスラスラ読める。一般教養科目で論理学入門を受講した甲斐もあった、と思って調子よく読んでいたのですが、やはり8割くらいまできてパタッと読めなくなる。スピードが落ちるというより理解できるキャパを超えちゃうのです。

私のなかの知性レベルの限界は、「現在の人間の知性の最先端の手前の1931年の『ゲーデルの不完全性定理』のさらに手前の手前だ」ということを思いながら、それでもやっぱり数学が自分の世界を広げてくれると信じて、再々挑戦のために、この機会に懲りずにこの本の電子版を買っちゃいました。

まだ中身は開いていないですが、こんな記事を勢いで書いちゃうくらいなんだから、やはり私は数学が好きなんだと思います。いつかこの定理のことが理解できた日にはこの記事の続きを書きたいと思います。

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