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仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話〜第二次浪人・就職編〜

就職浪人と内定

 一般的な大学生であれば、4年生の12月にもなれば就職先もほぼ決まり、卒業までのわずかな時間を惜しんだり、来るべき新生活への準備に勤しんでいる頃であろう。

 しかし私と言えば、いつまでたっても就職先が見つからず、ただ一人地元で就職活動をしていたのであった。福利厚生や給与水準を下げ、より通りやすそうな求人に応募をしてみても、果てに帰ってくるのはお祈りメールばかり。底抜けに前向き思考な私でも、この時ばかりは社会から拒絶されているように感じ、精神的にしんどい日々が続いていたものだった。

 果たして「在学中に働き口を!」と言う願いは、地元のトヨタ系ディーラーからの内定という形で実を結んだのだった。しかしいざ内定が出てしまうと、不思議と卑しい気持ちは芽生えてくるもので、「俺はこんな会社でくすぶるべき人間じゃない」という思いがふつふつと心に湧き上がり、就職先が見つかったことに満足するのではなく、結果対して不満ばかりが募るのであった。

 それに内定をもらったディーラーも、あまり良い噂のある会社ではなかった。今となればその会社は他社との吸収と大幅な従業員整理というオチが付いたので、振り返ってみればあながち間違った選択ではなかったと言えるかもしれない。

 結果としては間違ってなかったとはいえ、自らの青い虚栄心によってせっかく出た内定を自ら辞退した私は、人生で二度目の浪人、即ち就職浪人への道を歩むこととしたのだった。


 人間の欲望というものは底なしなもので、「これが欲しい、これがよい」と望んだものを手にしたら、「あれも、それも」と際限なく欲しくなるものなのだろう。この浅はかで罪深い人間の性(サガ)が、就職活動如きで体験できたのは今思えばある種の幸運かもしれない。底なしの欲望で身を滅ぼす例は、わざわざ挙げるまでもなく、世間には溢れているのだから・・・。


 大学同期がみなそれぞれの新天地を見つけた中、私は無職のまま大学を卒業した。そして春が過ぎ夏が訪れ、いつしか秋の色が山々を彩り始めた頃、地元金融機関が次年度の採用を行っているのを目にした私は、そこに応募したのだった。いわゆる第一地銀の子会社と、第二地銀、それぞれの総合職の求人だった。

 この頃になればもはや採用見送りにも慣れたもので、よもや受かるまいという気持ちで応募したのだったが、世の中あまり期待しない物事ほど調子よく進むのは何故なのだろうか。驚いたことにこれらの選考は、就職浪人である身にもかかわらずトントン拍子に進み、二社ともから内定が出たのであった。

 私の地元には2つの地方銀行があるが、その両方からちょうど内定が出た形となった。地方での就職において、しかも第2新卒扱いで地銀系企業に就職できるのはかなりの幸運であろう。当時はどちらにしたものかと悩んだのだが、結局は第一地銀の子会社に就職することに決めたのだった。ネームバリューは地元では圧倒的であったし、第2地銀の面接官には品の良さが感じられなかったというのも大きな理由だった。

 いくら子会社とはいえ、地元では圧倒的な銀行グループである。待遇もよく、将来も約束されたものだとこの時ばかりは安堵し、それまでの就職活動の失敗はこの会社に勤める為にあったのだと、当時は心の底から安堵したのだった。


理想と現実の乖離

 しかし私の人生なのだから、収まる所にそうそう簡単には収まらないのであった。入社を終え、新入社員研修もそこそこに、ようやく実務を行い始めた私の前に立ちはだかったのは、思い描いた理想とは程遠い、非常に残念な現実なのであった。

 そもそも金融機関とは堅い企業だ。信用とカネを扱う以上は業務がおざなりになってはならない。適切な業務、適正な監査、正確なプロセスなどは先人の苦労と失敗によって築かれ、脈々と受け継がれているのだ。しかしそれは、ともすれば、ルーティン化された業務が脳死状態な慣習となり、手段の目的化や、時代の流れに沿わない行動をもたらすこともある・・・。

 ようやく勝ち取った私の勤め先も、そのよい例であった。これは決して冗談ではないのだが、例えば社内のクローズドネットワーク内にて共有されたPDFファイルがあるとしよう。これを各事業所間に共有する為に、その会社では「PDFを本社にて印刷して各事業所へfaxで送り、事業所にてハンコを押印したものを、社内郵便で本社に送り返してた」のだ。

 faxはなるほど所によれば確かに現役の機械であろう、有用な設備であろう。初めてfaxが世に出たときの世の衝撃は想像に難くはない。だがこれはあまりにもあんまりではないだろうか。

 そもそも社内の共有フォルダにあるのだから、仮にハンコが必要だったとしても、事業所で印刷して送ればよい。このネットワークと技術の無駄な回り道は一体何なのだろうか。初めて目にしたときはバカバカしくて大笑いしたものだったが、しかし日常業務で行っているとやがて頭も身体も慣れ、その摩訶不思議なルーティンに私も加わっていたのだった。


 また古い体質の企業グループ故の人事上の問題も私に立ちはだかった。つまり親会社こそが絶対であり、親会社以上の給与や処遇は子会社ではあってはならず、そして管理職のポストや役員のポストは親会社からの天下り先として存在しているのだった。重要なポストは先々まで決まっており、そしてそれを決めるのは親会社の人事部であって、子会社には裁量の余地はないのだ。私のような非銀行出身の、いわゆるプロパー社員には栄達が望めず、せいぜいが営業部長どまりという将来が待っていたのだった。

 しかしそれでも人並みの給与さえあれば我慢できただろう。だが実態として年間昇給額は3,000円が10年続き、11年後からは昇給額は1,000円になるというものであった。10年勤めても3万円しか月給は上がらない。初任給20万円であったから、10年後の見込み月収は23万円なのだった。一体どうやって将来設計を行えばよいのだろうか。もちろん役職手当はつくが、前述の通り、ポストは親会社のある限り空くことはない。そもそも親会社ですら減収減益が毎年続き、業界全体としても先細りしていく一方だった為に、大幅な給与体系の見直しや、賞与の見込みも薄いのであった。

 全国的に生き残りをかけた銀行再編が相次ぐ中、親会社については名前ばかりは歴史がある為に、業界再編に対する反発や反感は根強く、ただ見えるのは約束された明るい未来ではなく、不確かで希望のない暗き未来なのであった。


 さてそんな会社に勤める先輩社員諸氏とは、その殆どが55歳にて定年を迎えた銀行マンばかりであった。本来ならばまだまだ働き盛りで、ついこの前まで支店長や事業本部長をしていた年収1000万円超の人間ばかりだった。
 銀行の定年は往々にして早く、世間での定年を迎えるまでの間は子会社に出向し、年金受給までを繋ぐことがある。しかしそれは、ともすれば、彼らからすれば55歳を迎えた瞬間に「激減した年収で、再びイチから現場の仕事を始める」ということを意味しているのだった。

 誰しもがやる気のない毎日を送っているのがよく分かった。やる気のない中年に囲まれた環境の中で、初めて世に出た若者が仕事をするのは、労働環境として良いものではなかった。

 まともにパソコンも触れず、Wordでせいぜい文章が打てる程度の人の横で、数百件の既存契約を整理し、年収の10倍以上の新規案件を回し、泣きながらVBAでマクロ組み立てて、書類一辺倒な業務をなんとか効率化しようと足掻くのは、今思い返しても愉快な仕事とは程遠いものだった。


 そんなネガティブな環境であったとしても、福利厚生、休日、立地やネームバリューからくる外部への体面等、給与と昇進の見込み以外は本当に良い待遇であったのは間違いなった。そして中年の元銀行マンが多い為に、私自身が可愛がってもらったことも多々あった。学生の時分より酒が好きだった私には、昭和的なドンチャン騒ぎの飲み会などはむしろ楽しかったものだった。

 だがしかし、ある時に耳にした銀行出向者同士の会話に、私の中のやる気の火は完全に消される事となったのだった。


転職決意とメイド喫茶と

 それは私が入社して1年と少々経ったころの話だ。新しく銀行から出向してきた人と、先に出向してきたその人の元上司との会話だった。(銀行出身者で埋まる私の勤め先においては、銀行時代の元上司元部下の関係は珍しいものではなかった)


「なんぼもらってるんや?800か?900か?こんな額じゃやってられんの~」


 耳を疑った。800?800ってなんだ?800万円か?


 Excelの数値を電卓ではじいて、その計算結果をセルに直打ちしているような連中が800万円ももらっているのか?

 印の乗った書類をfaxで受取って、真っ黒につぶれた押印を認めている管理者が800万円も貰っているのか?

 酷いショックを受けたものだった。そして脆弱な社内システムの為に、偶然目にしてしまった各社員への賞与支給額が、私にこの会話に信憑性を担保してくれたのだった。

 この彼らの会話と、偶然目にした「見てはいけない」データが、私を転職の決意へと導いたのだった。

 銀行出身者と比較して待遇は悪く、昇進の見込みが薄い中、業務において実務をしているのは私のような非銀行出身のプロパー社員ばかりであった。
 もちろん銀行出身者には銀行時代の積み重ねや苦労があるだろう。しかし私にすればそんなことは関係がないのだ。何年勤めても待遇が変わらず、実務上で割を食うのであれば、早い段階で環境を変えたほうが身の為だというのは明らかであった。

 内定をもらった時に、第2地銀でもいいからちゃんと本社採用される方に就職していればと後悔したものだったが、後の祭りだ。引継ぎの為の資料をこつこつと作りながら転職に向けて活動を開始したのだったが、転職活動もやはり難航し、中々転職先が見つからないまま、PDFをfaxで送る日々を私は過ごすのであった。


 こんな私の鬱屈した気持ちとストレスは、いつしかメイド喫茶という捌け口によって昇華されることになっていった。このメイド喫茶は私が高校生の頃にオープンした、県内唯一のメイド喫茶店であった。大学生時代には帰省の折に立ち寄ることもままあったものだった。
 会社からの帰路にあったこともあり、私は頻繁に店に立ち寄るようになった。都市部にあるメイド喫茶と違って入国料のようなものはなく、価格設定も普通の喫茶店とあまり変わらない、良心的な店であった。何よりも仕事の愚痴を上手に聞いてくれるメイドや店主によって、私は店に引き寄せられたのであった。仕事に鬱憤の溜まった中年サラリーマンが、ちょうどキャバクラやホステスに入れ込むように、私もメイド喫茶に入れ込み始めたのだった。古今東西、仕事に不満を持つサラリーマンというのは同じ道を歩むと言う事だろうか。


 やがて毎日のようにそのメイド喫茶に通いつめるようになった私は、常連の一人となった。そしてそのメイド喫茶にて、ロシア留学へと続く転職のきっかけとなる出会いと、恐らく一生忘れることのない、とあるメイドとの出会いが訪れるのであった・・・。


〜第二次浪人・就職編〜 完


つづく・・・。


あとがき

 ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。

 皆さんのお勤めの会社は一体どのような会社でしょうか?
PDFをfaxで送りますか?きっといやいや、今時そんな会社なんてあるわけないと思われるでしょう。あるいは「わかる、わかる」と思われる方もおられるかもしれません。

 私のこの摩訶不思議な業務の話は、何も平成10年代の話ではありません。ほんの3年ばかり前の話なのです。さすが今はもうfaxを廃止していると信じたいものですが・・・。そして1契約につき電話帳か!と突っ込みたくなる程に紙を印刷していたことも、今となれば懐かしい思い出です。稟議書と顧客の財務諸表などが一案件ごとに必要ですから、もうそれだけでもかなりの厚みになります。さらに条件変更や過去契約の参考資料の添付となれば、それはもう壮観なものでした。きっと環境活動家が見れば卒倒したことでしょう。

 それはさておき、いよいよモスクワ留学が見えて参りました。いよいよ次なる転職先にてロシア語と出会い、海外留学の決意となるわけです。モスクワ留学と開戦の話は、どうぞもう少々お待ちくださいませ。

 次回は初めての転職、初めての現場営業、ロシア語との邂逅、そして惚れ込んでしまったメイドのケツを追っかけるお話になると思います。ちゃんとケツを追っかけたメイド張本人からバッチリと許可は取りましたので、恥ずかしい思い出を赤裸々に書こうかなと思います。まぁ恥ずかしい思いをするのは私だけなんですけどね。


皆様からのコメントをお待ちしております。
誤字脱字等ありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。

それではまた続きのお話にて・・・。

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