言葉

以前に、「コスモをもやせ」というわたしが参加しているコミュニティのメンバーに、「2020年は文筆業をするんだ」という話をした。

そうしたら、中井さんが、「ブンピツってどっちですか」と聞いてきた。

どっちと言われても、わたしは、「文筆」しかしらないので、何のことかわからないと答えるしかない。

どうやら、「分泌」のことだったらしい。

「分泌業なんてあるわけないだろ」と言うと、

「だって、吉岡さんは、いつも自分で言葉をつくるから、またそういうのかと思ったんですもの」と返された。

わたしは、なるほどと思った。

言葉というのは、たしかに、発している人が言いそうなことと言いそうにないことがある。

人物自体が、もう文脈のようなことになっていて、わたしが言うなら「分泌業」である可能性が結構あるということなのだろう。

まあ、とはいえ、今回やろうとしているのは文筆業なのである。

ところで、話しているうちに、「文筆業」は、中井さんの中で、いつしか「文筆家」にすり替わっていて、わたしは「文筆家」という単語を、これまでの人生で一度も使ったことがなかったが、たしかに、業種は文筆業だが、肩書は文筆家かもしれないと、そのときはじめて思った。

「文筆業をやってみる」は、「文筆家になってみる」に変換可能で、しかしそれは同じ意味ではなくて、自分自身と、文章を書くという行為との、距離感や視点の違いが明確にある。

文筆家になってみる、の方が、格段に当事者意識が高い。

そんなことを、わたしは帰りの電車の中で考えていた。

そして、もしかしたら、やはりまだ、本気でやりたいとは考えていないのだろうかと自問していたが、スマホをいじっているうちに、忘れてしまった。

電車の中で、わたしは「リュックから本を出す」ことを行動原則にしている。

その日は混んでいたので、「混んでいるときにはスマホのkindleアプリで読む」という準原則を採用するはずが、通知が来ていたために、Twitterを開いてしまい、そのまま15分SNSを見続けることになった。

通知が来ていたらどうするかについて、準々原則で決める必要がありそうだ。

行動原則というのは、元々、サッカーで最近流行している「プレイ原則」というものから着想を得ていて、それはどういうものかというと、チームの約束事みたいなものだ。

だから、もともとは、他人どうしがどうやって共通理解のもとに動くかということを目的として作られたものであって、自分個人のためになぜ原則が必要なのだというつっこみがきそうなものである。

しかし、わたしは、自分というひとりの人間はいないような気がしていて、たとえば今日と明日のわたしは別人で、1時間後もまた違う人間なのではないかと思うのだ。

そして、その原則が完成していないがゆえに、わたしは電車でスマホを見てすごしてしまって、元々何を考えていたのかすら、今まで思い出さなかったのだ。

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