見出し画像

2022年10月4日、柳月堂にて。

18時15分。
外が予想外に暗いことに驚きながら、出町柳の名曲喫茶「柳月堂」へ向かう。こんなふうに衝動的にどこかへ行くことは滅多にない。
誰かが昔勧めてくれたけれど、結局行ったことはなかった。音が大きいだろうか、少し不安がよぎる。しかし、東京であのサイケデリックな爆音名曲喫茶を耐え抜いたのだから、もう怖いものは無いか。

「リスニングルームをご利用される場合は、600円のチャージを頂きます」
「はい、そちらで」
わたしは、600円のチャージを厭わない人だったっけ。

思えば最近、目の前のやるべきことをただこなすだけの時間と、すべてのことから目を瞑る時間を往復するだけの日々を過ごしていた。
インプットがない。
元々何も持っていないようなものだけど、これ以上、自分から出せるものが無い。

自分って、どんな人間だったっけ?
このまま無為に生活していたら、ほんとうに何も無くなってしまう。
取り返しのつかないレベルで、わたしは自分を思い出せなくなってしまう。
漠然とした不安があった。



薄暗い空間に流れているのは「G線上のアリア」。
ひとり用の席へと向かう。自分用の読書灯を灯して、ノートを広げる。
ことばを蒐集しているノートだ。そういえば随分長いこと開いていなかった。書き記しているのは小説の一節や詩、短歌だけれど、本質的に残そうとしているのは、「その出会いを残しておきたいと思った瞬間の自分」だったりする。

先々月読んだ川上未映子の小説『すべて真夜中の恋人たち』を記録する。この小説、帯には「これが、究極の恋。」と書かれているけれど、恋愛小説にカテゴライズしてしまうのは勿体無い気もする。
「あなたは自分の生を生きている?」
作中に漂う透き通った、繊麗な、でも少し冷たい空気の中で問われているのは、自分の感情、自分の人生から逃げていないか、ということだったように思う。

もし生身の人間に直接言われたら到底立ち直れなくなりそうな言葉を、登場人物・聖は容赦無く投げつけてくる。

「楽なのが好きなんじゃないの?他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法っていうか。そういうのが好きなんでしょ」

「要するに我が身が可愛いのよ」

「自分の気持ちを伝えたり、動いたり、他人とかかわってゆくのって、まあすごく面倒で大変なことじゃない?誤解されるのはうっとうしいし、わかってもらえないのは悲しいし、傷つくこともあるだろうし。でもそういうのを回避して、何もしないで、自分だけで完結して生きていれば、少なくとも自分だけは無傷でいれるでしょ?あなたはそういうのが好きなんじゃないの?」

「自分以外の誰かにべつに何かを求めない代わりに、自分にも誰からも求めさせないっていうかね。まあそうやって生きていければ、それは楽なんじゃないの?」

「知ってるとは思うけど、そういう人たちが傷つかないで安全な場所でひっそりと生きてられるのは、ほかのところで傷つくのを引きうけて動いている誰かがいるからなのよ」

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社文庫、2014年)

中学の部活の顧問の先生に、卒業式で渡された色紙に書かれていた一言が蘇ってくる。

自分を安全地帯に置こうとしなくても大丈夫。


ノートに書く。
ノートにシャープペンの先を押し当てて、適切な力加減で、書く。
脳が指先の角度とペンの進行方向に関する指令を出す。その指令に従って、指が動く。
自分の手を媒介して「書く」という「行為」が、その一文、その一単語、その一文字と自分との距離を近づけてくれるように錯覚する。
川上未映子という他人が生み出したことばが、わたしの一部になってくる。

そして、わたしはこれまでいったい何をやってきたのだろうと、ふとそんなことを思った。わたしはこれまで、何かを、選んだことがあっただろうか。
(略)
わたしは自分の意思で何かを選んで、それを実現させたことがあっただろうか。何もなかった。だからわたしはいまこうして、ひとりで、ここにいるのだ。
 でも、とわたしは思った。それでも目のまえのことを、いつも一生懸命にやってきたことはほんとうなんじゃないかと、そう思った。自分なりに、与えられたものにたいしては、力を尽くしてやってきたじゃないか。いや、そうじゃない。そうじゃないんだとわたしは思った。わたしはいつもごまかしてきたのだった。目のまえのことをただ言われるままにこなしているだけのことで何かをしているつもりになって、そんなふうに、いまみたいに言い訳をして、自分がこれまでの人生で何もやってこなかったことを、いつだってみないようにして、ごまかしてきたのだった。傷つくのがこわくて、何もしてこなかったことを。失敗するのがこわくて、傷つくのがこわくて、私は何も選んでこなかったし、何もしてこなかったのだ。

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』(講談社文庫、2014年)

これはもう、私のことば、私の感情そのものと言っても良かった。

記録すべき作品だった。今の自分にとって。八月の時点で記録するには至らず、今日書いたという事実には、「必然性」があると言ってもよいと思う。

近頃、「変わりゆく自分」をどう捉えるかということをよく考えている。

スミヌリ

今日、私を柳月堂に向かわせたのは、間違いなくあのことばだ。



ふと、雑記帳があることに気づいた。名曲喫茶らしく、五線譜のノートだ。今までに見たあらゆる雑記帳の中で、もっとも調和の取れた、達筆揃いの雑記帳に、思わず静かにときめく。

頁を捲りながら、この場所が受け止めるでもなく、包み込むでもない絶妙の距離感で、ただ滞在させてきた無数の人間の存在を考える。

ここでクラシックを聴き、いまの自分と同じように、体内から溢れてくることばを逃さないようにと書き留めていた人たち。その感情だったり、思考だったり、経験だったり、一緒に来た人との関係性だったり、時間、空間、そしてそれを包む音楽あらゆるものが、文字の集積に凝縮されている。
ここに文字を記した人たちの人生が交差することは決して無く。その人たちの実像は全く見えないけれど。

雑記帳に封印された人間の影が、この薄暗い空間をゆらめきはじめる。

雑記。雑多に記された、なんでもないような記録。
それがどうしてこれほどまでに愛おしく映るのだろう。
五線譜の上にいろんな人の手――ごつごつした手、思慮深い手、音楽家の手、日々の生活に疲れた手、いろんな手があったはずだ――が載っていたという事実だけで、容易にうっとりすることができる。

自分以外の人々にとっても、ここは特別の意味を持って訪れる場所なんだ。
この場所で音楽を聴くという行為を、楽しみに来る人。
日常のなかで抱えている何かを、忘れるために来る人。向き合うために来る人。
種々の筆跡の中に、私は親しみを覚える。そうして、わたしはここに居ていいんだ、存在していいんだ、という、あまりに大きな感情さえ湧いてくる。ぜんぶ、身勝手な妄想に過ぎないのだけれど。

わたしは、そういう人間なんだ。人に接近するのを怖がるくせに、たぶん、人間が好きだ。偏執的な方法で、人間に近づこうとする。正確に言えば、自分は隠れたままで、安全な場所から、人間を覗こうとしている。
やっぱり妖怪みたいだ。
「聖」の言葉を借りれば、「他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法」で、それは、ちょっと狡くもあるだろう。



……そうしてわたしの思考は結局「自分」に辿り着く。

ああ、忘れたくない自分はここに居た。

いいことばに触れた時、それを最も深く味わおうとする自分。
いいことば、というか、いい思いの粒というか。
その時の自分の最奥部にとぷんと、沈んでくるような、そんな粒たちを、こぼさない努力をしたい。
そんな気概を持った自分が消えていくことへの危機感を、失いたくない。

見えない誰かの存在に、思いを馳せる、馳せすぎてしまうような自分。
それも消えなくていい。
消えないで欲しい。

誰かにとっての「場所」でありたいと思う自分。
その対象は少なくても、ひとりでも構わない。
いつか、人間たちの影が蓄積する「場所」をつくりたい。

そして、目を逸らし、隠れ、人と接近するのを恐れながら生きている自分。


「モンタギュー家とキャピュレット家」が流れる中、なるだけ音を立てないように読書灯を消して、リスニングルームを出た。



2022年10月4日、柳月堂にて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?