ジェンダーステレオタイプは社会的構築物なのか?

バダンテール『母性という神話』

バダンテールは1980年に『母性という神話』という本を出版し、大きな反響を呼びました。この本はヨーロッパ史を通じて、時代によって母親に求められる役割が変わることを読み解き、「母性は本能ではなく、社会が作り出したイデオロギーである」という趣旨を述べています。実際に、ヨーロッパ貴族の間では子供をすぐに乳母に預け、母親が子育てを行わない社会も存在しました。近代においては、資本主義の台頭と共に近代的核家族が成立し、家父長制を維持するために女性に対して期待される役割が「母性」と呼ばれていました。この本は近代フェミニズムの金字塔として扱われています。

ジュディス・バトラー「ジェンダートラブル」

1990年、ジュディス・バトラーは「ジェンダートラブル」という書を発表しました。この本は、ジェンダー(性差)が社会的に構築されたものであり、所与ものではないという主張を掲げています。

そもそも「セックス」とはいったい何だろうか。それは自然なのか、解剖学上のものなのか、染色体なのか、ホルモンなのか。(…)セックスの自然な事実のように見えているものは、じつはそれとはべつの政治的、社会的な利害に寄与するために、さまざまな科学的言説によって言説上、作り上げられたものにすぎないのではないか。(…)おそらく「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにジェンダーなのだ

生物学的な性を「セックス」、文化的な性を「ジェンダー」という用語で区別することがありますが、バトラーの見解は、生物学的なセックスですら社会的な言説に過ぎないと論じた点が斬新でした。2023年現在、LGBTQなどのジェンダーフリーな思想が広がっているのは、彼女の著作がその基盤となっています

ホモエコノミクス・イデオロギー

ログの筆者は、ジェンダーが社会的な構築物であると主張する意見を、ホモエコノミクス・イデオロギーの一環とみなしています。ホモエコノミクスイデオロギーとは、筆者の造語であり、資本主義社会において資本の拡大再生産を促進するために必要な社会的条件を整えるために生まれる「人間の在り方」をめぐる一連の思想を指します。これはアダム・スミスが経済的な利己主義的人間を「ホモエコノミクス」と呼んだ概念というだけでなく、人種・国籍・文化・性など人間の集団的な側面を排除し、中性的で歴史のない人間像を作り出そうとする考えを含んでいます。

自由市場の中で、「家事は女性の役割」といった考えが存在すれば、女性の労働市場への参加を妨げる一因となります。同様に、「家を守る役割は先祖代々の伝統」と主張し、出身地から離れることを選ぶ人がいる場合、人的労働資源が労働市場で自由に移動できなくなります。また、「人種や国籍によって差別的な雇用」を行う慣行も、市場経済の成長を妨げる要因となるため、資本主義社会では悪い思想として認識される傾向があります。

このホモエコノミクスイデオロギーにおける性差に関連する側面は、ジェンダーフリーイデオロギーと結びついています。ジェンダーフリーイデオロギーは、性差を超えて人々を評価し、平等な機会を提供する考え方を指します。一方で、ジェンダーは家父長制社会のイデオロギーであり、またバイナリージェンダーは男性優位の社会秩序を維持するためのイデオロギーだと捉えることは、ジェンダーフリー思想の実践と言えます。

唯物論とジェンダー論

現在、ブログ筆者は上野千鶴子の著書「家父長制と資本制」という本を読んでいます。上野はマルクス主義フェミニストです。マルクス主義とは資本主義を批判する立場を指し、彼女は資本主義社会における女性の抑圧を、男性が賃金労働を行い、女性が人口の再生産に従事するという核家族を維持するための社会的な言説だと捉えています。

ここで、一つ疑問に思うのは、マルク主義フェミニストが唯物論的に議論を展開していないことです。マルクス主義は観念論者であったヘーゲルを批判し、唯物論を唱えたことです。ヘーゲルは歴史の進展をアイデア(観念の展開)の歴史と考えました。対照的に、マルクスは生産手段の発展、すなわち物質的な進化が歴史を駆動していると捉えました。彼は農耕社会における社会制度が封建制と王権の権力集中を生み出し、工場生産社会における社会制度が資本主義および資本階級による労働者の支配を形成したと考えました。

マルクスは、観念論に偏重したソフトな側面にこだわり、一方で物質的な側面を軽視した考察を批判しました。彼はヘーゲルが「頭でっかちで、頭を逆立ちさせている」と嘲笑ったと言われています。

上野たちマルクス主義フェミニストも、「資本主義社会における女性の役割」というのを分析、批判しているわけですが、性差を考えるにあたり、社会のソフトな側面(観念論)的の分析になっている。これはマルク主義者なのに唯物論を捨ててしまっているのだ。つまりマルクス主義フェミニストたちはマルクスのテクストを読み過ぎて頭でっかちになり逆立ちしているのだ。
(※もちろん、資本主義内における文化的性を研究しているのであり、根底にあるのは資本性という物質面であるという主張はあるだろう)

上野たちマルクス主義フェミニストも、「資本主義社会における女性の役割」というのを分析、批判しているわけですが、性差を考えるにあたり、

社会的・文化的性であるジェンダーが、生物学的性から派生しているという視点が抜けていると言えます。

観念的ジェンダー論  マルク主義ジェンダー論
ジェンダーを社会的・文化的役割として研究する
唯物的(物質的)ジェンダー論  ≒ジェンダー本質主義
ジェンダーを生物的差異から派生した副産物だと捉える

ジェンダー研究の理論的転回

そう足りていないのはジェンダーを生物学的な性差から研究する視点だ。

例えば、観念論ジェンダー論者は、男性がガニ股で歩くことを、「体を大きく見せようとしている」と分析し、女性が内股で歩くことを「か弱い存在であろうとしている」と分析する。

しかしながら、これは男性の大腿骨が骨盤に対して外旋してる=股が外に開く。女性の大腿骨は骨盤に対して内旋している=脚が内向きという性差から派生したジェンダーであって、社会的性差(男は強くあるべき、女性はか弱くあるべき)から人間が無意識的におこなっている習慣ではないのだ。

こうやって分析していくとジェンダー文化論者とは全く逆の方向で研究が進むことになる。こうした分析によって、どれだけジェンダーステレオタイプが社会的構築物であり、どれだけジェンダーが人間に本質的なのかを区別することができる。

観念的ジェンダー論=構造主義(論者ジュディスバトラー、上野鶴子など)
※社会文化的性であるジェンダーはもちろんのこと、生物学的性セックスまでも社会的構築物と考える。ホモエコノミクスイデオロギーの下位分類。

社会的習慣、文化、家父長制、生産様式 → セックス及びジェンダー

唯物的(物質的)ジェンダー論=本質主義
※物質的現実からセックス・ジェンダーを捉え、どこまでが文化・社会・生産様式由来のジェンダー規範でどこまでが生物学的差異から生じるジェンダーかを調べる。

生物学的性差(解剖学、ホルモン)
    ↓(影響)    
  セックス ー(影響)→ ジェンダー
               ↑(影響)
           文化・社会習慣・生産様式

バダンデールの「母性という神話」の論述によれば、母性は「社会的な言説によって作られた幻想」とされますが、生理学的な観点からは、産後ホルモンの変化によって「共感性」を調整する脳の部位が増加し、幼児の非言語的な要求に敏感に反応し、理解する能力が高まることで「母性」が形成される。また、乳幼児に母乳を与えると幸せホルモンのセロトニンが分泌されることも知られています。父親にはない、母親が子供に感じる原初的な紐帯はこの幸せホルモンによる作用でしょう。

バダンテールが述べていた子供を乳母にあづけるフランス貴族社会は、母性が神話であることの証明ではなく、社会的制度によって女性から母性を奪うこともできるということになります。

おそらく、この女性の「共感性の発達」という要因が、女性的なジェンダーを形成する最大の要因の一つであると考えられます。ジェンダーバイアスを排除した研究でも、女性は共感性に優れている一方で、男性は空間把握に優れているという結論が得られています。言語能力が発達していない子供のニーズを汲み取り、それを供給することが子育てでは必要ですが、共感力が発達していない男性には不向きな活動です。

また、女性性の研究と並行して、男性性に対する「マスキュリニティ」の考え方が解体されつつあります。男性には強くあれという社会的規範が存在しますが、これはおそらく男性ホルモンによる影響と関連しているでしょう。男性ホルモンは競争性を高める傾向があるため、このような社会的規範が形成されると考えられています。いくらジェンダー構築主義者がジェンダーは社会的構築物だと糾弾しようとも、男性ホルモンの99%が睾丸で作られており、これの臓器を女性が所有していないこと、また男性ホルモンが人間の行動に影響を絶えることは否定できません。

上記のように唯物的(物質的)ジェンダー論には3つの主なセックス的差異がある。

  • 1・解剖学的(骨格など)

  • 2・脳神経的(脳の構造)

  • 3・ホルモン的(女性ホルモン・男性ホルモン)

私の考えでは、観念的ジェンダー論者が論破してきたジェンダーというもののほとんどはこの物質的(セックス)な差異から説明ができると思っています。生物学的な男女差異が社会化されていき文化の中に埋め込まれたのがジェンダー。

ジェンダー論の研究は、ジェンダーに関する文化的含意、歴史的形成過程を分析することではなく、ジェンダーをめぐる議論がどこまで文化的な副産物としてのジェンダーでどこまでが生物学的差異か判別することが仕事になります。

ジェンダー差異をセックスの差異に見出す研究は、日本の歴史を研究する学者がその起源をめぐって日本神話を読み、考古学や遺伝子研究、文献考証を行い、神話がどこまで現実に起こった現象で、どこまでがでっち上げなのかを判別していく研究に似ているでしょう。

多くの資本主義が経済成長に悩み、発展途上国が先進国の資本主義社会の矛盾を外部化する形で苦しんでいる中で資本主義社会のイデオロギーも見直されるでしょう。

ホモエコノミクスイデオロギーに突き動かされたフェミニストたちが思うような観念的ジェンダーは、ホモエコノミクスが死に絶え、人間復興の時代が訪れた時に、旧時代のイデオロギーとして切り捨てられるだろう。


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