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君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな

性器がチリチリした。彼女はトイレでいやな感覚に襲われた。きっと水泡が出来ているに違いない。生理で免疫力が下がったのだろう。痛みを感じるたびにうつしたあの人のことが脳裏をよぎる。ウイルスを持っているとわかっていたらしなかったのに。悔やんでも悔やみきれない。ヘルペスを持っているかどうかは発症するまでわからない。彼女は発病した。20年していなかった快楽の後に。

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彼女は早くに結婚をした。夫は絵に描いたような真面目人間で冗談も言わなければ愛嬌もなかった。唯一の取り柄は勤勉であること。どんな仕事も受け入れるので転勤が絶えなかった。子供たちは小学校を5回も転校した。そのたびに地域に受け入れてもらえるよう、彼女はPTA活動に積極的に取り組んだ。苦労の甲斐あって子供たちはすくすくと成長し手元から離れていった。

子供はそれぞれの道を。夫は相変わらず仕事を。住む場所を転々としてきたので寄り添う友達もいなかった。一人彼女だけ取り残された。強烈に寂しさがこみあげてきた。20年間一生懸命誠実に生きてきた結果がこれとは。人のぬくもりを感じたいと思い、出会い系のサイトに彼女は申し込んだ。

ビギナーズラックに彼女は当たった。近くに住んでる自分と近い歳のシェフと出会った。包容力のあるタイプで優しくて大らか、会うと笑いが絶えない男だった。何度も愛し合った。愛される喜びを取り戻したことに心も体も喜んでいたはずだった。病気になるまでは。

症状が出たことを伝えると男は急速に彼女を遠ざけた。月に何度も病院に行かなければならず、痛みは彼女の心を蝕んだ。誰かに守ってもらいたい。出会い系で起こったことならば同じようなことを知っている人がいるかもしれない。2つ目の出会い系サイトに彼女は登録した。

『出会い系で病気をうつされました』

こんな書き込みに誰が反応してくれるのだろうか。彼女は誰も反応してくれなくてもいいと思っていた。ただ自分の苦しい現状を呟くだけで発散できる気がした。

「泣き寝入りはいけない」

反応してメッセージを送ってきてくれた人がいた。彼は医者だという。原因は必ず相手にあるはずだから断固戦うべきと言ってくれた。そんな励ましをしてくれる彼はガンを患って自宅で療養中。人のためになりたいと思って彼女に連絡をくれた。元気と勇気をくれたホワイトナイトにいつか会いたいと彼女は思った。

シェフに連絡を取ると初めは煙たがられたが誠意のない対応をしてしまったと謝られた。そのあと弁護士から示談金を渡された。毎月の診療代と薬代を計算し慰謝料も含めた額だった。近々自分の店を開業させるシェフ。早い対応はそのためなのだろうか。なんの感情もなく彼女はそれを受け取った。

出会い、感染、発症、別れ、続く闘病生活、次々と起こったことに頭も体もついていかず彼女はノイローゼになった。それでもそこから這い上がりたい気持ちがあったのが救いだった。慰謝料を元に自分磨きを始めると体調は回復していった。明るい未来を考えることが出来るようになると求めたい気持ちが溢れてきた。

『セックスはできません』

3つ目の出会い系でそう募集に記した。性的関係を求めるコミュニティでそれが出来ない女性に声などかからないだろうと知っての行動だった。しかし世の中は広かった。

「是非お会いしたいです」

メッセージが彼女のもとに届いた。

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朝の新宿のビルは生気が抜けて廃墟のようだ。昨夜はここにどれだけの人がいただろう。繁華街のど真ん中にある珈琲店。昭和レトロを彷彿させる店内で僕は一人彼女を待った。メイド風の制服を着たウエイターは新人らしく、少し震えながら仰々しくコーヒーをカップに注いでくれた。そのあとに彼女は現れた。

『縛るのが趣味なんですって』

3つ目の出会い系で知り合った男性は縄を極めているという。プレイ専用の別荘を持っていて今まで様々な女性を撮影してきたそうだ。男性は健康状態が悪いため医者からセックスを止められている。彼女もできないのでお互いに丁度いいと言っている。二人の緊縛の世界にセックス以上のものがあるのかもしれない。男女の繋がりは奥が深いと感じざるを得なかった。

「太らないといけないですね」

痩せた彼女を見てて、つい僕は口が滑ってしまった。

『そうなんですたくさん食べないとね』

屈託なく嬉しそうに彼女は答えてくれた。たび重なるストレス痩せてしまった。それを縄が食い込みエロティックに魅せるための豊満な体にする。食が細い人にとっては大変なことそうだったが彼女は乗り気だった。

セックスができない。それでもなお新しいカタチを求め、生きがいにしたいと思っている彼女に生命の強さを感じた。病に負けないでと言う同情は不要だ。今を充足して生きようとしている彼女は輝いて見えた。


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