旅行記を書いて思うこと
さて困った。書く予定だったネタをついに書ききってしまったのだ。
約10年かけて積み上げられてきた旅の貯蓄は、わずか10ヶ月で使い果たされてしまった。
まぁ実際のところ、まだ書いても良いかなと思っている場所がいくつかあるし、新しい観点でのシリーズの構想も無いわけではない。
当面は旅に出れそうにもない時世ではあるが、もうしばらくはそういった記事でつないでいけなくもないだろう。
だが今回は、ここまで10年分、約40近い旅行記の執筆を振り返って、感じたこと、あるいはいくつかの問いについて書いてみたいと思う。
何故書くのか
何故旅行記を書き始めたか。それは自己紹介記事に書いたとおりである。
思えばこのときと比べて馴れ馴れしい文章になったものだが、
つまるところ、これまで行った色んな場所で特に印象に残った思い出を整理したかったのだ。
ただ写真を眺めては思いを馳せるよりはいくらか生産的だろうと当時の私は思っていた。
書き続ける自信はあまりなかった。
それが気づけば10ヶ月。
停滞した一時期を除いてほぼ毎週キーボードを叩いていた。
何故書き続けられたのだろうか?
旅行記を書くということはもう一度旅をすることである
ということに気づいたからだろう。
書くという行為を通して得られる旅の追体験こそが、書き続けた動機だったと思う。
旅行記を書いているとき、たしかに私はもう一度旅をしていた。
求める非日常のワクワク感がそこにはあった。
思い出を文章にすることで、新しい目線での旅の再発見という存外の楽しみに気付かされることになった。
だから一連のシリーズを書き終えたときには、旅の終わりに近しい寂莫の思いがあった。
なぜ公の場で書くのか
これも最近私の頭を擡げていた一つの問いである。
先に挙げた目的だけならばチラシの裏に書いても達されるし、電子データにしてもマイドキュメントの奥底にでも丁重に眠らせておけばいい。
なのにどうして私はnoteという公の場で書いているのだろうか?
低次かもしれないが、解に窮する問いだった。
主には書き甲斐の問題なのだろうが、承認欲求の存在は否定できないだろう。
実際のところ、どうせ書くならば見てもらいたいと思うし、スキがもらえるならなお嬉しいよね、くらいでそれ以上深く考えることはあまり生産的でないのかもしれない。
道端でカバー曲を歌うストリートミュージシャンに「なぜ歌うのですか?」と問うことにあまり意味はないだろう。
私も彼らと同じモチベーションでキーボードと向かい合っているのかもしれない。
一方で公の場で書くことのメリットについて、実際に書いた上で感じるポイントを一つ挙げるとすれば、読み手とのインタラクションだろう。
すなわち、書かれた記事を読んだ人が、過去に同じ場所を訪問したことを思い出したり、似たような経験の記憶を引き起こしたり、あるいは新しく興味を持つ。さらにはそれがフィードバックとして書き手に帰ってくるという相互作用である。
これはローカルに閉じていては絶対に生まれないし、皆様の記事を読む側としての私も少なからず受け取っている作用だ。
自分の楽しみとして書き始めたものが、人の関心をひき、読んでもらえることに感謝したいし、
さらに私の自己満足があなたの日常において、自動販売機のお釣りで手に入れたギザ10程度にでも好影響を与えたとしたら、それに勝る喜びはない。
ここまでを総合すると、記事を書いてきて良いことずくめのようだが、必ずしも良いことばかりとも言い切れない。
旅行記を書くことで改めて浮き彫りになってきた、1つの問題もある。
表面をなぞる旅
旅行記を書きながら最も痛切に感じたこと、それは
自分はあまりにも表面しか見れていない
ということだ。
いや、もしかしたら表面すらもちゃんとは見ておらず、
質の悪い掃除ロボットのように、ただぼんやりと一部を撫でているだけなのかもしれない。
どういうことか?
つまり、実際に私が旅行に赴いている時に、十分な情報を受け取れていないという問題だ。
私は旅行に行く前にそれなりに綿密な下調べをする。だがそれはあくまでどの場所を見てどの場所を見ないかという取捨選択に過ぎず、見ると決めた場所についてその詳細を追うことはしない。
その結果、見るべきポイントを見れていなかったことに後で気づくのだ。
だから私が旅行記で記すスポットの客観的情報に、あなたが「そうなんだ」と思っていただけているとき、低くない確率で私も「そうだったんだ・・」と思っている。
後で気づけたのだからラッキーという考え方もできるが、もったいなさも同時に感じてしまうのだ。
(ただし、実際に旅行してから最低2年、最長12年のラグがあることは考慮しなければならないが。)
実はこれに関しては、旅行記を書き始める以前からずっと心の隅で感じていたことではある。
原因を無理やり外部に求めようとするならば写真だ。
どこかのスポットに行く。
写真を撮る。
それだけで、7割方満足してしまっている自分の存在に気づいてはいた。
記録をすれば後で見返せるから。文明の利器の弊害である。
カメラを持たずに旅行することを本気で検討したこともある。
結果的にはスマホを持っていかないことは考えられず、スマホで写真を撮ってしまうだろうから意味がない、と実行には移さなかったのだが。
対策として最も単純なことは、1つ1つのスポットにもっと時間をかけることである。
わかっている。私の旅は忙しなさすぎるのだ。
もっと時間をかけ、じっくりとそれぞれのスポットを観察し、自分なりのものの見方で情報を受け取れるようになるかもしれない。
でもそれはおそらく無理だ。実際にやろうとしても我慢できないだろう。
どうしても色々見たくなってしまうのだ。
なので、極力現状のスタンスを維持しながら折り合いをつけていく必要があるだろう。
ただ一つ言えることとしては、自分で旅行記を書きながら
「これだけの情報を手にした上で旅していたら、きっともっと楽しかったろうな」と感じたということである。
まだ見ぬ旅に向けて
ここまでの話を総合した結果、未来の旅に向かって一つ決めていることがある。
次の旅に赴く時、私は
先に旅行記を書いてから旅に出る
ことに決めた。
すなわち、行ったことがない場所について堂々と語る旅行記である。
旅は計画しているときが一番楽しい。しばしばそのように言われる。
一番かどうかは置いておいて、その魅力については私も同感だし、それはおそらく、まだ見ぬ世界の光景にあれやこれやと思いを馳せることができるからだろう。
その計画フェーズにおいて旅行記を先に書くことで、これまでのように場所の取捨選択をするだけではなく、さらに各スポットに対しての予備知識や見るべきポイントを把握してから望むことができるようになると言う算段だ。
そういう意味では旅行記というより、しおりに近いのかもしれない。
その後、実際に計画に沿った旅をする。
そして、実際の経験をもとに本当に行った旅行記を書く。
なんと一度で三度美味しい旅の出来上がりだ。
行ったことがない場所について旅行記を先に書くことは、本番の旅行の際の新鮮な楽しみを奪うのではないか?と言う懸念もあるかもしれない。
しかし、百聞は一見にしかずという言葉があるように、如何に下調べを完璧にしたとしても、実際にその場にいかなければ得られない情報(空気とか雰囲気とか)や自分が感じた感情までは補完できず、つまり楽しみは無くならないのではないかと思っている。
マグネットはeBayで買えても、五感を通した体験は手に入れることはできないだろう。
さらに身もフタもないことを言えば、旅行記を先に書いたところで、実際そのとおり忠実に旅が進むわけがないのだ。
どっちにしても旅は楽しいに決まっている。
おわりに
今回は、旅行記を書いてきたこの1年弱で感じていた思いを振り返りながら、
なぜ旅行記を書くのか
もっと旅を楽しむために何ができるか
なぜ旅をするのか
などとモヤモヤ考えていたことの整理を試みた。
とはいえ、答えが出ようが出まいが、導き出された答えがあっていようがあっていまいが、大した問題ではない。
何れにせよ私は旅ができるようになったら旅に出るだろう。
ワクワクするから行くのだ。
理由などそれで十分なのかもしれない。
しかし、理由を言語化したほうがより楽しめそうな気がするから、考えて仮説を提示するに至ったたのだ。
私の拙い想像力では、グザヴィエ・ド・メーストルのように自宅の旅行記を書くことなど出来そうにはない。
それでも、いつかまた国境を超えて未知の場所へと足へ踏み出すその時には、きっと先に調査と想像の旅行記を書いてから向かうだろう。
いつのことになるかは、未だはっきりと見えてはこない。
それでも、
太陽眩しいカリフォルニアの空も、
雨模様のコルカタの街も、
星空輝くホノルルの海も、
以前と変わらぬ姿できっと待っていてくれるはずだ。
次はどこに行こうか。
これは私のバケットリスト(死ぬまでに行きたい場所の一覧)だ。
どうやらまだまだ死ねそうにはない。
最後までご覧いただきありがとうございました。
今回はモヤモヤと考えていたことを書いてみる記事でした。
せめて動物の写真だけでも楽しんでいただければ幸いです。
次回は、視点を変えた新シリーズを書こうと思います。
いただいたサポートは、新たな旅行記のネタづくりに活用させていただきます。