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ラゴンスーツにアタシを詰め込んでレンタルしたい

  「今、思えばラゴンスーツに自分自身などをレンタルしたい!」・・これは昔、アテクシが「ブログペット」というブログパーツを使用していて、それが自動的に吐き出したテキストの一節です。
 なかなかシュールな文なので、とても気にいってます。
 「筆者代理自動文章作成アバター」とも言えるこのパーツは、今はもうサービス停止になっているのですが、その仕組み自体は「各社のブログサービスのフリーエリア部分へ貼り付けた後、設置サイトにアクセスすることにより動作。」って代物で、要するに管理者がブログなどに書いた既存記事の一節をかってに切り取って再構成し、管理者の代わりにその文章を投稿しちゃうんです。
 あっ、ちなみに「ラゴンスーツ」って言うのは、貧乳・全裸姿の体表面ドロドロな女半魚人の着ぐるみの事です。

 アテクシはSF小説が大好きだったので、旧SF系の映画・旧TV作品レンタルなんかもたくさん見てきました。
 古い映画って特殊技術なんかは、今とは全然比べ物にならないくらいチャチなんですが、SFマインドって点で考えると、健全さがあって凄く好きです。(悲劇的な捉え方であってもそこに「病み」がない)
 そんな視聴歴の中で特に強烈な印象(というより妖しい印象かな?)が残っているのがウルトラQの「海底原人ラゴン」なんです。
 この話、簡単に言っちゃえば、自分の生んだ卵を捜し求める為に、ある島に上陸した「海底原人ラゴン」と、ラゴンに対する村人達のパニックをホラー仕立てにした作品です。
 このラゴンスーツの造形が、ビトビト質感のグロで尚かつ「雌」属性なんですね。
 (お乳が少し膨らんでいるし股間やヒップ回りが妙につるんとしてて微妙です)
 普通なら「怖い」っていうイメージが先行する筈の造形なんだろうけど、アテクシの場合は、妙にラゴンに対して官能的なものを感じていたのです。
 まあ、その手の話をブログで書き連ねていたので、ブログペットがあざとくもそれを拾い上げ、他のワードと共にこの一節を吐き出したというワケです。

 このブログペットの凄いところは主従の逆転した文書を簡単に書くところですね。
「今、思えばラゴンスーツに自分自身などをレンタルしたい!」
 普通なら、レンタルして手に入れるのはラゴンスーツで、それを着て倒錯的なフェチズムの欲求を満たす主体は「自分自身」なんだけれど、それが見事に逆になっている。
 該当本人からすると、レンタルされるのは人である「自分自身」で、他人視点からだと、レンタルするのはラゴンという中身のない空っぽの皮なんですね。
 人権が保障されている筈の人間を、まるで品物の様に、しかも他人がそれを強制するのではなく自ら望むとは、これってまるで「自由からの逃走」じゃないですか(笑)。
 在日日本人って発想で言うと、最近の人々が持つ屈折した欲望や孤立感を反映させて、この文章を「ラゴンスーツにアタシを詰め込んでレンタルしたい」というふうに整形したい所です。

 ところでかなり知られたネットスラングに「中の人」という表現があります。
 この表現の起源は吉田戦車氏の「伝染るんです。」を元にして、「中の人などいない!」というスマッシュヒットな「概念」が生まれた時期に遡れるようですが、現在はこの「中の人」って言葉は実に色々な場面で使われるようになっていますね。
 アテクシにとって馴染み深いのは、特に「着ぐるみ」大好きな人々とか、特撮オタクな人々の中で使われる「中の人」という使い回しですが、これってアテクシ的には「萌え」に次ぐ、表現力豊かなジャーゴン(←これ自体が矛盾)のひとつなんですね。
 「中の人」という言葉、例えば着ぐるみなどに当てはめてみると、一見、着ぐるみの内(中)と外を厳格に分けているように見えるけれど、実は、内と外の曖昧さや、融合「分離可能な不可分」みたいな状態に生まれる心地よさを、無意識に言い表しているような気がするんです。

 例えば、一般的な所で一例を挙げてみると、特撮ヒロインの「中の人」は多くの場合、男性スーツアクターさんなんですね。
 それはタイツ地のコスチュームから浮き出る身体のラインではっきり判るんですが、それでも視聴者にとって画面の中での「○○ピンク」は、「○○ピンク」以外の何者でもない。
 勿論、時々「中の人」が女性のアクション女優さんの場合もあり、それはそれで殿方にとっては嬉しいのでしょうが、かと言ってそれは「○○ピンク」を愛でるための絶対条件じゃないってことなんです。
 そんな視点で考えると、アテクシの場合、「雌」のラゴンの「中の人」が実は男性であった事に倒錯的な納得をしていたのかも知れません。
 「外(側)」と「中(の人)」で言えば、他人は「外側」でしか、その存在を認識することは出来ないんですが、「外側」自体は「中の人」がいなければ動くことすら出来ないという不思議な構造を持っています。
 この外と中の間にある奇妙な落差というか、ねじれに、エロチシズムを感じる瞬間って結構あるんじゃないでしょうか?
 普段、怖そうに見える人が急にお茶目をやると凄くチャーミングに見えるとか(笑)。
 さらにこの構造は、突き詰めていけば「衣服」にも「化粧」にも通じることだし、人間は他人に「名前」を付けなければ「他人」を把握することさえ不可能だという事実に繋がるかも知れませんね。
 フェチレベルのエロチシズムというものは、人間が他者を認識する心理システムの中に生まれるものじゃないか?とか、芸能論にも通底している部分もあるな?とか、時々そんなことを考えてみたりする今日このごろです。


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