『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ②「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?
Ⅲ. ②「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?
ⅰ.「最大多数の最大幸福」か「一人の生命か」
前の記事で、「青空」か「陽菜」かという問いは<大人>×<子供>という対立の延長線上にあると言いましたが、それだけではこの問いの本質を十分とらえきれているとは言えません。
なぜなら「青空」か「陽菜」かという問いを<大人>×<子供>と捉えることは形式的な構図の話だからです。いわばそれは外枠であって、選択の内実ではないからです。
「青空」か「陽菜」かという問いの内実は、もっと道徳的に語れるように思います。
わかりやすく言うと、「青空」か「陽菜」か という問いは、トロッコ問題の変化形だと考えられます。
つまり、トロッコ問題において、片方の線路に陽菜を縛り付け、もう片方の線路に世界の天気と異常気象で不幸になる人たちを縛り付けておくと、『天気の子』になると考えられるのです。
そう考えると「青空」か「陽菜」か という選択がより道徳っぽく聞こえてくると思います。
「青空」を選択するというのは、いわば最大多数の最大幸福を優先するということです。異常気象になれば、直接災害で命を落とす人もいるかもしれないし、長い目で見れば食べ物や住む場所などに影響が起きて、 多くの人が不幸になる可能性があります。
「陽菜」を選択するというのは、一人の命を守り、自分の幸福を追求するということです。『天気の子』では、青空を選ぶこと=陽菜の死という直接的な描写はありませんが、「空の上=彼岸」 と言われていることや、空の上に行ってしまったらもう会えなくなる というのは間接的には「死」を意味すると捉えられます。
要するに「青空」か「陽菜」か という選択は、「最大多数の最大幸福」か「一人の生命」か という道徳的な選択に言い換えることができるのです。
以上のように考えると、先ほどの<大人>×<子供>という視点とは少し違った印象を受けます。
最大多数の最大幸福を捨てて、一人の大切な命を守るということは、道徳的にどう捉えられるでしょうか? それは「幼稚」な選択なのでしょうか?
それを考えるために、帆高が「陽菜」を選んだことをどう捉えているのかということ中心に、「陽菜」という選択をもう少し掘り下げて考えてみましょう。
ⅱ. 帆高は「世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから」を免罪符にしているか?
帆高は「陽菜」を選んだことをどう捉えているのでしょうか?
『天気の子』の感想を見ていて、少し気になる感想がありました。世界を捨てて「陽菜」を選んだことに対して、帆高は「世界なんてさ――どうせもともと狂ってんだから」という須賀の言葉を免罪符にしているように思う、という趣旨の感想です。
たしかに終盤で立花のおばあさんは「東京はもともと海だった」と語りますし、須賀も「世界なんてもともと狂ってんだから」と言いながら「うぬぼれんなよ」と帆高を励ますので、そういう印象もわかります。
ただ『小説 天気の子』を改めて読むと、それは誤解なのではないかと考えられます。
「もともとは、海だった――」、「世界なんて、最初から狂ってた……」という言葉を反芻しながら、帆高は以下のように考えています。
「この世界がこうなのは、だから、誰のせいでもないんだ」
そう呟いてみる。そう言えばいいのだろうか。彼女の求めている言葉は、これだろうか。東京はもともと海だった。世界はただ、最初からあるがままに狂っていたんだ、と。
(中略)
――違ったんだ、と目が覚めるように僕は思う。
違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなことは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。
((新海誠『小説 天気の子』p290より引用。太字は筆者による))
帆高には自覚があります。「大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を」選んだという自覚があるのです。
つまり帆高は、「陽菜さんの命を」選んだという選択に対して、社会や世界に責任を押し付けるようなことはせず、むしろ「僕たちが変えたんだ」という強い自覚を持っているのです。
そしてこのあたりから、『天気の子』に込められた逆説的なメッセージを読み取ることができます。
ⅲ. 「決断・選択」を子供が担うという逆説
『天気の子』では、ある一点において、本来<大人>が担うべき性質を(法律上の)「子供」がもっており、<子供>が担うべき性質を(法律上の)「大人」が有しています。
その性質とは、「決断・選択」の性質です。
これに関してははっきりとした描写が見て取れます。それは例えば以下の2つの引用に見ることができます。
「このまま逃げ続けたら、もう取り返しがつかなくなるぜ? そのくらい分かるだろう?」
この人がなにを言っているのか、僕は本気で分からなくなる。逃げる? 逃げているのはどっちだ? 見ないふりをしているのは誰だ?
「心配すんなよ」須賀さんはふいに優しい声になる。
「俺も一緒に行ってやるからさ。二人で事情を話そうぜ、な?」
そう言いながら、強引に僕を出口に引っぱっていく。大人の力に僕は引きずられる。
((新海誠『小説 天気の子』p252))
2つ目は須賀の独白です。
俺たちは別になにもしていない。なにも決めていない。なにも選んでいない。それでもこのまま逃げ切れるわけはない。世界はいつか決定的に変わってしまうだろうと誰もが予感していて、誰もがずっと、知らないふりをしていたのだ。
((新海誠『小説 天気の子』p269))
上の方の引用では、「逃げているのはどっちだ? 見ないふりをしているのは誰だ?」という言葉が向けられた須賀を「大人」と表現しています。
下の方の引用では、須賀の独白であるはずですが、主語は「俺たち」となっており、「なにも決めていない。なにも選んでいない」のが「大人」であることが示唆されています。
これに、先ほどの帆高の「僕たちが変えたんだ」という明確な自覚を合わせて考えれば、『天気の子』で「決断・選択」をしているのは帆高という「子供」であり、反対に、「なにも決めていない。なにも選んでいない」のは須賀をはじめとする「大人」だと描写されている、と読むことができます。
前の記事で定義したように、社会の役に立たない、理性的な活動に何ら資することがない存在が<子供>であり、その反対が<大人>でした。
とするならば、「決断・選択」をするのは<大人>の役割だと言えます。なぜなら、「社会」は「決断・選択」の積み重ねで形成されており、理性的な活動には「決断・選択」が必要不可欠だからです。
しかし『天気の子』では、その<大人>の役割であるはずの「決断・選択」を、法律上の「子供」である帆高が行っているのです。
これは素直に考えれば、新海監督が込めた現実世界の大人への皮肉だと読むことができます。
「決断・選択」をして物事を解決していくのが「大人」であるはずだった。しかし今の社会には「決断・選択」をせず「知らないふり」をしている「大人」がいる。そういう揶揄のように聞こえてきます。
もちろん、新海監督も「大人」に全く「決断・選択」がないとは思っていないでしょうが、現状を変えずに、なあなあと慣習に従っている社会を揶揄しているのだとしたら、それは少しわかる気はします。
「決断・選択」をせず、「伝統」を引きずり、「慣習」に振り回される日本の社会を皮肉ったというのなら、それはそうかもしれません。
ⅳ. 『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?――2つ目の答え――
ここで、『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? という問いに対して、2つ目の答えが与えられます。
すなわち、本来<大人>が担うべき「決断・選択」という役割を、「陽菜」を選択するという形で、法律上の「子供」である帆高が成し遂げているという点において、『天気の子』という物語は「幼稚」ではない、という答えです。
この点において、前述しておいた疑問にも答えることができます。前述しておいた疑問とは、 <大人>の選択肢を捨てて<子供>の選択をすることが、果たして本当に「幼稚」なのか? という疑問です。
この疑問に対しては、<大人>の選択肢を捨てて<子供>の選択をすることは、<大人>×<子供>という観点で捉えれば「幼稚」だと言えるが、「決断・選択」という観点から見ればそれは「幼稚」ではないと答えられるでしょう。
<大人>の選択肢を捨てて<子供>の選択をすることは、その「選択している」という点において、「幼稚」ではないと考えられるのです。
ⅴ.「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?
以上のことをまとめると、世界を捨てたという選択に対して、②帆高は「世界なんて、最初から狂ってた」ことを免罪符にしているだろうか? という冒頭で立てた2つ目の問いには、帆高はそれを免罪符にはしていないと答えられます。
むしろ帆高は、「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ」という強い自覚を持っており、反対に大人たちは「なにも決めていない。なにも選んでいない」存在として描写されていました。
したがってこの「決断・選択」をしているという点では、「陽菜」を選ぶという帆高の選択は「幼稚」ではないと言えます。
ただし、これだけではまだ、「陽菜」を選ぶという選択肢自体が「幼稚」ではない、とは十分に言えないと考えられます。
なぜなら、前の記事で見たように、<大人>から見れば、「陽菜」を選ぶという選択は<子供>の自分勝手な選択だからです。
しかしながらこの章の冒頭で述べたように、「陽菜」を選択するということは一人の生命を救うということでもありました。
裏を返していえば、「青空」を選択することは、一人の命を犠牲に捧げるということでもあります。
その場合、「青空」を選択するということは、一人の命を奪うという点において、一般的な道徳観から見て「悪」だと言うことができます。
つまり「青空」か「陽菜」か という選択には、「道徳」と「道徳」とのぶつかり合いが見て取れるのです。
その「ぶつかり合い」とはつまり、一人の命を犠牲にして最大多数の最大幸福を優先するという「道徳」と、最大多数の最大幸福を犠牲にしても一人の命と自分の幸せを優先するという「道徳」の「ぶつかり合い」です。
そして結果的に『天気の子』では、最大多数の最大幸福を犠牲にしても、一人の命と自分の幸せを優先するという後者の「道徳」の方が勝ったわけですが、まさにこの点に、『天気の子』の最大の論点があります。
あるいは、『天気の子』が<大人>たちから怒られる要因はまさにこの点にあると言ってもいいかもしれません。
なぜなら、既存の道徳、<大人>の倫理からすれば、須賀が言うように「誰かがなにかの犠牲になって、それで回っていくのが社会ってもん」なので、最大多数の最大幸福を犠牲にして一人の命と自分の幸せを優先する、という「道徳」が勝っていいわけがないのです。
したがって問題は、一人の命、自分の幸福を選択するという「道徳」は、(最大多数の最大幸福を優先するような)既存の「道徳」を超えるほどの道徳なのか? という疑問に集約されます。
一人の命、自分の幸福を選択するという「道徳」は、確かに大胆で、新しい道徳のようにも思えます。
しかしそれは果たして、既存の道徳を超えるほどの力をもった<超道徳>なのでしょうか? それは「幼稚」な、自分勝手な選択と何が違うのでしょうか?
次の記事ではこのことを、③「大丈夫」は無責任な言葉なのだろうか? という冒頭で提示した最後の問いとともに考えていきたいと思います。
<次 ↓③「大丈夫」は無責任な言葉なのだろうか?↓>
<前 ↓①「陽菜」という選択は「幼稚」か?↓>
<参考文献>
新海誠『小説 天気の子』(角川文庫,2019)
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