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『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?④(完) なぜ物語には<子供らしさ>が描かれるのか?

Ⅴ. 『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?

ⅰ. まとめ

 以上、下の3つの疑問を軸に『天気の子』を考えてきました。
①「青空」ではなく「陽菜」を選ぶというラストの選択は「幼稚」だろうか?
②世界を捨てたという選択に対して、帆高は「世界なんて、最初から狂ってた」ことを免罪符にしているだろうか?
③「大丈夫」は無責任な言葉なのだろうか?

 また上の問いと同時に、『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? というタイトルの問いにも答えてきました。それに対する答えもまとめておくと、以下のようになります。
①「幼稚」という言葉が、<大人>の選択肢を捨てて、<子供>の選択をするということを意味するならば、「陽菜」を選ぶという<子供>の選択をする『天気の子』は「幼稚」な物語である
②「幼稚」という言葉が、「決断・選択」ができないという意味ならば、本来<大人>が担うべき「決断・選択」という役割を、法律上の子供である帆高が成し遂げているという点において、『天気の子』は「幼稚」な物語ではない
③「幼稚」というのが、責任を放棄した無責任な<子供>の態度を意味するのなら、「大丈夫」という言葉で「陽菜」に対しての「責任」をとる『天気の子』はという物語は「幼稚」ではない

 これを踏まえて、改めて『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? という問いについて答えを与えてみたいと思います。
 総じて言うならば、『天気の子』は、<大人>の視点から見れば「幼稚」に映り、<子供>の視点から見れば「幼稚」ではないと見ることができる、と考えられます。

 『天気の子』という物語は基本的に、<子供>が<大人>に勝利するように話が進んでいきます
 「陽菜」を選ぶという決断は、「決断・選択」ができたという一点においては<大人>かもしれませんが、結局その選択は、社会のために全く役立ちませんし、理性的な活動に何ら資するところはありません
 なぜならそれは、<子供>の選択だからです。自分が世界の主役だと思っており、社会なんて「どうでもいい」と考えている<子供>の選択だからです。 

 でもだからこそ、これは<大人>から怒られるのです。こんな<子供>が増えたら社会が成り立たないし、<大人>は困る。だから<子供>を律するし、「もう大人になれよ」と「成長」を促すのです。
 これはまさに、新海監督が多数のインタビューで言っている「怒った人をもっと怒らせたい」という狙い通りだと言えるでしょう。 

 しかしではなぜ新海監督はこのようなことをするのでしょうか? 新海監督はなぜ<大人>よりも<子供>が勝利するような物語を描いたのでしょうか?
 あるいはもっと突き詰めて言うと、なぜ「物語」には<子供らしさ>が描かれるのでしょうか?

ⅱ. <子供らしさ>とは何か

 私の好きなフランスの思想家にジョルジュ・バタイユ (1897-1962) という人がいます。
 私はそのバタイユという哲学者の考え方の中に、なぜ「物語」には<子供らしさ>が描かれるのか? という疑問の答えがあると考えています。

 バタイユは著書『文学と悪』の中で、文学を以下のように定義しています。

「文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか」
((ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』山本功 訳(ちくま学芸文庫,1998) p15))

 この文で注目すべきは「少年時」というキーワードです。
 「少年時」はフランス語では ≪enfance≫ であり、別のところでは「幼年性」、「小児性」などと訳されることもありますが、一番わかりやすく言うとそれは<子供らしさ>のことです。

 では<子供らしさ>とは何でしょう?
 バタイユの言う<子供らしさ>とは、簡単にまとめると、役に立たないものや、理性的な社会に何ら資するものがない行いのことです。
  つまり、バタイユの言う「少年時(enfance)」、すなわち<子供らしさ>というのは、前述してきたような『天気の子』における<子供>たちの振舞いにほかならないのです。 

ⅲ. なぜ物語には<子供らしさ>が描かれるのか?

 では、なぜ物語には<子供らしさ>が描かれるのでしょうか?
 バタイユは物語に<子供らしさ>が描かれる理由を、<超道徳>を要求する点にあると考えています。

 <超道徳>とは、読んで字のごとく、道徳を超えるような道徳のことです。
 それは簡単に言えば、既存の道徳観を揺るがすような新しい「道徳」のことです。バタイユはそのような<超道徳>を要求するものが、ときに<子供らしさ>であると考えていました。

 では、<超道徳>が既存の道徳観を揺るがす、とはどういうことでしょうか?
 例えば、「働いていないで遊んでいたい」というのは<子供らしさ>だと言えますが、そういう<子供らしさ>が、「普通は週休二日制が基本だ」とか、「1日8時間労働するのが基本だ」という今まであった道徳規範を壊してきたと見ることができます。
 すごくわかりやすく言うのなら、そういうものが<超道徳>です。すなわち、<子供らしさ>は、<大人>の常識を壊したり、<大人>の道徳観を相対化したりする役割を果たすことがあるのです。

 そしてそのように<大人>を揺さぶる<子供らしさ>を、インパクトをもって提示してくれるのが「物語」です。
 そういう意味で、「物語」には力があります既存の道徳観を超える<超道徳>を要求し、ときに<大人>の常識を相対化し、ときに<大人>の道徳を変化させていくパワーがあります
 したがって、物語が<子供らしさ>が描くのは、そのような既存の道徳観、とくに<大人>の倫理を揺さぶる<超道徳>を要求するためだと答えられるでしょう。

ⅳ. 『天気の子』は<超道徳>を要求しただろうか?

 では『天気の子』は、バタイユの言うような<超道徳>を要求するほどの力(パワー)をもった「物語」でしょうか?

 はっきり言って私はそうは思いませんでした。
 『天気の子』は<大人>の視点を相対化することにはある意味成功しているかもしれませんが、<超道徳>を要求するほどの力はないように思います。
 なぜなら『天気の子』が提示する<子供らしさ>は既存の道徳観を超えるようなものではないからです。帆高がする「陽菜」という「愛」の選択は、立派に一人の命を救うという既存の道徳観で語られてもおかしくないような選択です。

  それよりも私が気になったのは、帆高の「選択」は果たして本当に「選択」と言えるだろうか? という点です。

ⅴ. 選択肢の「軽さ」

 帆高の「選択」というのはある意味必然ではないでしょうか?
 言い方を変えれば、帆高が与えられた「選択肢」というのは、帆高にとってはあまりにもリスクの少ない「軽い」選択肢ではないでしょうか?
 端的に言えば、帆高の「選択」には、葛藤がないように思われるのです。

 その選択肢の「軽さ」というのは、まずもって「陽菜」を選ぶこと=「青空」を捨てることであるということが、当人たち以外の誰にも知られていないという点に見ることができます。
 「陽菜」選んで「青空」を捨てたとしても、誰も帆高のせいだとか、帆高の責任だなんて言わないわけです。つまりたとえ「陽菜」を選んでも、帆高以外の誰も、帆高自身を罰することはないのです。
 それなら、帆高にとって「重み」のある、愛する「陽菜」を選ぶのは必然なのではないでしょうか? 

 また「青空」を捨てるという「選択肢」の内実にも「軽さ」があります。
 たとえ「青空」を捨てても、運が良ければ直接的に人が死ぬことはないかもしれません。あるいは「青空」を捨てても、自分たちがすぐに地球に住めなくなるということでもないのです。
 地球が滅亡するでもなく、「陽菜」と生きられる環境が残るのなら、帆高にとっては「青空」なんてやっぱり「どうでもいい」わけです。

 つまり<子供>から見れば、そんなの「陽菜」を選ぶに決まっているのです。
 もちろん帆高は<子供>なので、大勢の他者が不幸を被るとか、大勢の命が危機にさらされるとか、そういう<大人>の想像力は欠如しています。
 というよりむしろそれは「悩むよりも「自分たちは次の世界に行くよ」って軽やかに飛びこえる若者たちの姿」を見たかった新海監督の意図的な計画ともとれます。

 したがってそこにあるのは、<子供らしさ>の不徹底だと考えられます。つまり<子供らしさ>を徹底するのなら、もっと<大人>を怒らせるような、もっと<大人>が困るような「重い」選択肢を用意してもよかったのではないでしょうか。
 言い方を変えれば、<子供>さえも葛藤してしまうような、そんな「重い」選択肢を用意すれば、<子供らしさ>を徹底できたのではないかと考えられるのです。

 以上のような選択肢の「軽さ」という点が、『天気の子』に<超道徳>を要求するような「重さ」がない要因になっていると、私は思います。

ⅵ. 誰かにとっての<超道徳>

 それでもやっぱり、『天気の子』を「幼稚」だと笑うことは、私にはできません。
 なぜなら『天気の子』はきっと、どこかにいる「帆高」にとっては<超道徳>に映っただろうからです。

  『天気の子』公開直後、『天気の子』がまるで昔プレイしたゲームのようだという感想が話題を呼びました。
 私はゲームをやった経験が浅いため、ゲームのようには感じられませんでしたが、代わりに私は『天気の子』を、「あの夏の日に読んだ2chのSS」のように感じました。
 それは具体的に言えば、「寿命を買い取ってもらった。一年につき、一万円で。」とか、「ゲーセンで出会った不思議な子の話」とか、そういうSSを読んだ「あの夏の日」記憶です。
 そしてそれは、当時の私にとっては間違いなく<超道徳>でした。今までの自分の道徳観を超えるような<超道徳>でした。

  そして『天気の子』はきっと同じように、誰かにとっての<超道徳>になるのだと思います。
 そしてそれは帆高のように、純粋な<子供らしさ>を備えた人間にとって特にそうなのだと思います。

  私は、素晴らしい物語とは、そのような「可能性」をくれる物語だと思っています。
 今まで自分の中にはなかった「可能性」を与えてくれる、世界にはまだまだ「可能性」があるのだということを教えてくれる、そんな物語が素晴らしい物語だと思っています。
 私はそれをデンマークの哲学者セーレン・キルケゴール (1813-1855) から学びました。

誰かが気絶した場合には、我々は水やオードコロンやホフマン氏液を持ってくるように叫ぶ。だが誰かが絶望せんとしている場合には、「可能性を創れ! 可能性を創れ!」と我々は叫ぶであろう、可能性が唯一の救済者なのである。
 ((キェルケゴール『死に至る病』斎藤信治 訳(岩波文庫,1957) p.62))

 キルケゴールはその 「可能性」を信仰に見たわけですが、私はその「可能性」が物語にもあると考えています。

 そのような「可能性」が誰かに与えられるのなら、そのような<超道徳>が誰かにもたらされるのなら、『天気の子』はその人にとって素晴らしい物語になるのではないでしょうか。
 そういう意味で、きっとその人にとっては、『天気の子』は絶対に「幼稚」な物語には映らないでしょう。 

Ⅵ. おわりに

ⅰ. 『まんじゅうこわい』

 『まんじゅうこわい』という話があります。
 初めに若者たちが集まって「怖いもの」を言い合うのですが、その中に1人、「まんじゅうがこわい」という男がいます。
 そこで仲間たちは面白がって、その男が寝ている部屋にこっそりまんじゅうをしのばせます。すると男はひどく怖がって見せながらも「こんな怖いものは食べてしまって、なくしてしまおう」などと言って、まんじゅうを全部たいらげてしまいます。
 その一部始終をのぞいていた仲間たちは騙されていたことに気づき、怒りながら男に向かって「お前の本当にお前が本当に怖いものは何だ!」と聞きます。
 するとその男はこう答えたのです。
 「このへんで、濃いお茶が1杯怖い」

 ⅱ. 『まんじゅうこわい』がわからないのが「こわい」

 なぜこんな話をしたかと言うと、私が『天気の子』を見て最初に思ったのは、『まんじゅうこわい』がわからない<大人>は増えてほしくないなあ ということだったからです。
 これは私の友人から聞いた話なのですが、友人が小学校低学年のとき、「国語」の時間に『まんじゅうこわい』を扱ったそうです。
 クラスでオチまで音読した後、先生が「このお話の意味が分かった人?」と聞くと、手を挙げたのは、友人を含め数人だけだったそうです。
 もちろん小学校低学年なので、わからない人がいても仕方がないと思うのですが、友人はあまりにも理解者が少ないことが「こわかった」らしいのです。 

ⅲ. 「文学なき国語教育」

 私は先日『文學界 9月号』の「文学なき国語教育が危うい!」という特集を読んでいたとき、ちょうどその友人の話を思い出しました。
 なぜなら「文学なき国語教育が危うい!」で危惧されていたのは、ちょうどそのような『まんじゅうこわい』がわからなくなってしまう未来の話のように思えたからです。

 「文学なき国語教育」というのは、例えば、センター試験の代用として提案された「契約書」を読む問題を出そうという動きや、より実用的な文書を読ませる教育をしようという動きのことです。
 「文学なき国語教育が危うい!」で危惧されていたのは、そのような教育の仕方によって「文学」が「読めなく」なる未来、言葉のもつ魅力が感じられなくなってしまう未来でした。
 私はその話を『まんじゅうこわい』がわからない人が増える未来に重ねて「こわい」と思ったのでした。

ⅳ. 『まんじゅうこわい』がわかるということ

 そんなことがあってから『天気の子』を見たのですが、『天気の子』は『まんじゅうこわい』がわからない人が見るとヤバい映画なのではないかと思ったのです。
 みなまでは言いませんが、それは要するに『天気の子』を「文学」としてではなく、「契約書」として読まれてしまったら嫌だなということです。
  極端な例を言っておけば、『天気の子』は犯罪を肯定しているだとか、『天気の子』は日本の堕落した若者の体現とか、そういう風な感想は見たくないということです。
 それはきっと、帆高を補導した警察官が放った「鑑定医、要りますかね?」と同じような態度です。相手の言葉に耳を傾けず、自分たちの知っている既知の領域に相手を落とし込めて安心したい、安全を保ちたいと思う<大人>の態度です

 ただそれは杞憂かもしれません。『天気の子』の感想を一通り見た今は、なんとなく勝手に心配していただけだな、とも思っています(ただ最近「アンパンチが暴力的だ」というのが話題になって、また少し心配になってきました)。
 しかし『天気の子』を見た後は、むしろ私自身が『まんじゅうこわい』がわからなくなってしまうことを恐れていました。今回こうしてまとまった文章を書いてみたのは、そのためでもあります。
 ただもちろん、結局のところはわかりません。『まんじゅうこわい』が「わかる」かどうかは私だけではわからないし、もしかしたら誰にもわからないのかもしれません。
 それはきっと「言葉」の罪でもあり、「言葉」の魅力でもあるのでしょう。

 私が今伝えられるのはこれくらいです。
 もしもこれを読んでくださっている方が『まんじゅうこわい』について、あるいは『天気の子』について何か少しでも考えてくださったなら、私は嬉しく思います。 

 最後までお読みいただきありがとうございました!

<参考文献>
・ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』山本功 訳(ちくま学芸文庫,1998)
・酒井健『バタイユ入門』(ちくま新書,1996)
・酒井健「バタイユと『見出された幼年』 : インファンティア概念への一視角」 『法政哲学 13』(p13 - 24) (法政大学学術機関リポジトリ 参照)
・新海誠『小説 天気の子』(角川文庫,2019)

※この記事は筆者が運営するブログ「野の百合、空の鳥」に投稿した文章をnote用に改稿したものです。
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