『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ①「陽菜」を選ぶという選択は「幼稚」か?
Ⅰ. はじめに
多くの「大人たち」に、この作品は無責任だと罵ってほしいし、「大丈夫」なわけないだろうと憤ってほしい。そしてオタクたちが「これが理想だなあ」と言いながら須賀のようになっていき、それを尻目に「帆高たち」には迷わずまっすぐ走っていって欲しい。
『天気の子』を見た直後のこの感想は、今でもおおむね変わっていません。
しかし、『天気の子』に対する他の方の感想や批評記事を読んでいると、どうも私の理解は不十分なのではないかと、違和感を覚え始めました。
その後自分なりに考えた結果、私の抱いた違和感は、以下の3つの問いにまとめることができるという結論に至りました。
①「青空」ではなく「陽菜」を選ぶというラストの選択は「幼稚」だろうか?
②世界を捨てたという選択に対して、帆高は「世界なんて、最初から狂ってた」ことを免罪符にしているだろうか?
③「大丈夫」は無責任な言葉なのだろうか?
そしてこの3つの問いについて丁寧に考えた結果、この3つの問いも、タイトルである 『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? という1つの問いにまとめられるのではないかと考えました。
本論では、最初に立てた3つの問いについて考えつつ、『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? というタイトルの問いに答えることを目指します。
そして最終的には、それらの問いへの答えを踏まえつつ、「物語」とは何か? 「物語」にはどのような力があるのか? という問いにも踏み込んで考えてみたいと思います。
ではさっそく、1つ目の問いについて考えてみましょう。
Ⅱ. ①「陽菜」を選ぶという選択は「幼稚」か?
ⅰ. <大人>×<子供>という図式
まず、『天気の子』には、<大人>×<子供>という対立(「×」という表記はここでは対立を意味します)が、一つ軸としてあると考えられます。
だただし、ここで注意したいのは、『天気の子』における<大人>や<子供>というのは、法律上の「大人」や「子供」とは異なるということです。
『天気の子』における<大人>の描写には、例えば以下のようなものがあります。
「人間歳取るとさあ」圭ちゃんはオッサンらしく両手で顔をごしごしとこする。「大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな」
((新海誠『小説 天気の子』(角川文庫,2019) p.186))
「人柱一人で狂った天気が元に戻るんなら、俺は歓迎だけどね。俺だけじゃない、本当はお前だってそうだろ? ていうか皆そうなんだよ。誰かがなにかの犠牲になって、それで回っていくのが社会ってもんだ。損な役割を背負っちまう人間は、いつでも必ずいるんだよ。普段は見えてないだけでさ」
((新海誠『小説 天気の子』p.189))
「このまま逃げ続けたら、もう取り返しがつかなくなるぜ? そのくらい分かるだろう?」
この人がなにを言っているのか、僕は本気で分からなくなる。逃げる? 逃げているのはどっちだ? 見ないふりをしているのは誰だ?
「心配すんなよ」須賀さんはふいに優しい声になる。
「俺も一緒に行ってやるからさ。二人で事情を話そうぜ、な?」
そう言いながら、強引に僕を出口に引っぱっていく。大人の力に僕は引きずられる。
((新海誠『小説 天気の子』p.252))
以上に見られるように、『天気の子』における<大人>は、社会の秩序を維持する存在、あるいは理性的な活動に奉仕する存在として描かれています。
『天気の子』において<大人>は、上のような発言をする須賀はもちろんのこと、帆高たちを追いかける警察たちに代表されています。
反対に、<子供>に関しては以下のような描写がなされています。
世の中の全てのものが自分のために用意されていると信じ、自分が笑う時は世界も一緒になって笑っていると疑わず、自分が泣く時には世界が自分だけを苦しめていると思っている。なんて幸福な時代なのだろう。俺はいつ、その時代をなくしたのだろう。あいつは――帆高は今でも、その時代にいるのだろうか。
((新海誠『小説 天気の子』p220-221))
この描写に見られるように、『天気の子』では<子供>というものが、世界が自分を中心に回っていると考えている者、自分が世界の主役だと考えている者として描かれている節があります。
その一つの証左として、「私の少女時代は、私のアドレセンスは、私のモラトリアムはここまでだ」と、「先に大人になっておく」と宣言する ((新海誠『小説 天気の子』p.242)) 夏美の心理描写があります。
私たち以外はぜんぶ脇役。世界はすべて私のために用意されている。私は世界の真ん中に立っていて、私が輝く時は世界が輝く時だ。対岸のアスファルトまではあとすこし――ああ、世界はなんて美しいんだろう――。
((新海誠『小説 天気の子』p.240))
このように、『天気の子』における<子供>は、世界が自分を中心に回っていると考えている者、自分が世界の主役だと考えている者だと考えられます。
繰り返すようですが、それは法律上の「大人」や「子供」という概念とはことなります。現に夏美は法律上は「大人」ですが、作中では上の描写に見られるように<子供>として描かれています。
以上のように、『天気の子』には<大人>×<子供>という対立の図式があります。そしてそれは具体的には、「社会」の秩序を安定させる人間 × 自分が世界の主役であると思っている人間 の対立だと、言い換えることができます。
ⅱ. 「青空」か「陽菜」か
そしてこの対立の延長線上に、「青空」か「陽菜」か というラストの選択もあります。
「青空」を選ぶ、つまり「陽菜」を犠牲にして、世界を異常気象から救う道を選ぶということは、多くの人々の幸福を維持し、社会の秩序を保つということです。すなわちそれは、人間の「社会」を救うということに他なりません。
まさに須賀の「誰かがなにかの犠牲になって、それで回っていくのが社会」という言葉の実践が、こちらの選択肢です。そういう意味でこちらは<大人>の選択だと言えるでしょう。
それ対して「陽菜」を選ぶというのは、<子供>の選択です。世界が自分を中心に回っている<子供>にとっては「社会」など「どうだっていい」のです。
「陽菜」を選んでも、社会の役には立たないし、理性的な活動に何ら資することはありません。その点において、「陽菜」を選ぶというのは自分が世界の主役だと考えている<子供>の選択だと言えるでしょう。
ⅲ. 『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?――1つ目の答え――
以上のことから、『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? というタイトルで立てた問いに、まず1つ目の答えが与えられます。
すなわち、「幼稚」という言葉が、<大人>の選択肢を捨てて、<子供>の選択をするということを意味するならば、『天気の子』は間違いなく「幼稚」な物語だと答えられます。
東京を海に沈め、たくさんの人間を害することは「社会」にとって役に立たないどころか、間違いなく有害です。その選択は、<大人>から見れば<子供>の所業であり、「幼稚」に映るでしょう。
しかしここには一つ問題があります。
それは、<大人>の選択肢を捨てて<子供>の選択をすることが、果たして本当に「幼稚」なのか? という問題です。
<子供>の選択をするということは、たしかに「幼稚」なように思えます。しかしそれは<大人>の視点から見たときに初めて言えることなのではないのでしょうか?
<大人>から見れば、<子供>というのはときに都合の悪い存在です。
なぜなら<子供>は「社会」なんて「どうでもいい」と思っており、「社会」の秩序を乱しかねないからです。
したがってときに<大人>たちは、都合の悪い「幼稚」な<子供>を排除したり、「成長」するようにうながしたりします。
そうして<大人>たちは言うのです。
「――もう大人になれよ、少年」と。
ⅳ. <子供>の選択をすることが、果たして本当に「幼稚」なのか?
話をもとに戻しましょう。
「青空」か「陽菜」か、という選択で「陽菜」をとることは、「社会」に何ら資するところはないため、それは<大人>から見ると<子供>の行いに見え、「幼稚」なように思われるのでした。
しかしそれは<大人>の視点から見たときの話です。<大人>の選択肢を捨てて<子供>の選択をすることは、果たして本当に「幼稚」なのでしょうか?
これを考えるには、「青空」か「陽菜」か という選択肢を、より掘り下げる必要があります。そのとき特に、その選択を<大人>の視点からではなく<子供>の視点から考える必要があります。
次の記事ではそれを、②世界を捨てたという選択に対して、帆高は「世界なんて、最初から狂ってた」ことを免罪符にしているだろうか? という2つ目の問いとともに考えていきたいと思います。
<次 ↓②「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?↓>
<参考文献>
新海誠『小説 天気の子』(角川文庫,2019)
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