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1998年6月26日、ベルリン

前回の「ベルリンに来て3年目」からの続き。当時の日記を読むと、これを書いたのは2ヶ月半にわたる日本、モスクワ滞在からベルリンに戻って来てすぐに書かれたもののようだ。

シャルロッテンブルク区のNiebuhr通りに住んでいたちょっと風変わりなベルリナー家族との共同生活中。当時の自分にとってまさに「ドイツの家族」のような存在だった。

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西側のNiebuhr通りに引っ越してきてから、西に張り付いている。外出することが減った。特に週末がそうだ。

5月の1週目だけだった、ベルリンが愛おしく思えたのは。

緑豊かなベルリンは私にかえってある人の不在を印象付けるのだ。

例えば今日のように。真昼から夢を見ようと試みてベッドに倒れ込む。

なんて無力なんだ!情けない。

机に向かってはみるが、何をする気力もないことは分かっている。

手に取ったサルトルはマテリアルなもの、肉体批判と自己について皮肉に書かれているばかりだ。

ただ「会いたい」という欲求が満たされずに生活が滞るなんて、贅沢な話なのかもしれない。

タバコを吸ったらまた一眠りしよう。明日こそはいい日になるだろう。

自分のやりたいことや自分自身がわからなければ、いい写真は撮れないな、などと思う。逆に撮ることで自分の無意識な想いが写り込むかもしれない。

あの人は私のこんな気持ちもつゆ知らず、気持ちよく眠っていることだろう。床に着く前にちらっとでも私の存在が頭をかすめたのであれば良いのに、と思う。人間なんて人生の半分は眠っているのだから。

疲れを取るために眠るのなら、いっそのこと疲れることなどしなければいいんだ。それとも逆に気持ちのいいことだけをしてクタクタになってみればいい。

ちょっとヤケになっているようだ。最近、タバコの量が増えた。

ここのところ、自分でもどうしようもないくらい不安定だ。ひとりにして欲しい、と心から思う。そのくせ同時に寂しい自分もいてもがいている。

これはもうあの人の不在だけが原因なのではない。

パースペクティブの欠落?25という年のせい?

気持ちよく外が歩けない。

何をしている時が一番いい気分になる?

こうして物を書いている時、写真を撮っている時。本を読んでいる時もそうかな。

それだったら、それだけに集中すればいい。今しかないんだから。今しか。

*タイトル画像は当時の日記の表紙に貼ったロシアのチョコレートの包装紙です

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