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野放しにされるSNSとその限界

最初からSNS上に流れてくる文字列など信用しないたちではあるが、どうもツイッター(現X)になってからますますその傾向が強くなった。何を隠そう、当アカウントも一度だけボヤ程度に炎上したことがある。

海外に住んでいる人、いわゆる「海外在住組」(このクラス分けのような言い方が気に入らないのであえてカギ括弧にいれておく)に対するクソリプのパターンというものがいくつかあるようだ。そして、全パターンをおそらく網羅するくらいの数のリプは来ていたようで、私のことを直接知る友人知人たちから心配するDMやらLINEが届いたことは記憶に新しい。

当の本人はパターンが決まっているため、読まなくても内容がほぼ予測できるのと単に一時帰国という貴重な時間を1秒も無駄にしたくなかったので、リプには基本的に目を通さず、ツイッターからは一定期間距離を置くことにした。

そう、SNSなど自分が必要でなければ、そっと閉じて傍に置きさえすれば雑音や駄文を目にするリスクがなくなる。所詮はそのくらいのツールでしかない。それがなぜか習慣化(あるいは依存)してしまうと、1日に少なくとも1度は開いて文字列を追わないと落ち着かなくなってしまうのだから恐ろしいことだと思う。デジタルネイティブ世代は間違いなくこの傾向が強いだろう。

ただし、個人的にツイッターにはどちらかというといい経験をさせてもらっているというのが正直なところだ。ツイッター経由で新しい知り合いも何人かできたからだ。

インターネットも携帯もSNSもなかった時代にひとりでベルリンに出てきたときは、何をするにもかなり時間が掛かった。例を挙げると、例えば人と知り合うには自分の足で動く以外、方法がなかったわけだ。全てがストレートでダイレクト。直接ある目的地に向い、道端やカフェ、ギャラリーなどで出会った人と話して知り合いになったり、語学学校で一緒のクラスになったクラスメートと連絡先を交換する。手間はかかるが、自分と関わり合いになる人を自分で選択できるという安心感があった。

今のSNS上のコミュニケーションはそれに比べると、顔の見えない匿名性が非常に強い。誰だかわからない人から突然罵声を浴びせられる、といったようなことがそれこそ日常茶飯事に起こる。フェイクニュースや見たくもない残酷な動画が視界にいきなり飛び込んできたりもする。情報の氾濫と洪水、それをうまく自分で遮断できる人はいいが、そうでないと疲労など弊害の方が多くなってしまうのもよくわかる。

毎日毎日、取捨選択している暇もないくらいタイムラインには何十通もの新規投稿が流れてくる。急がば回れ、というが人々は急ぎすぎて熟読もできなくなりつつある上、よく考えずに人を損なうような言葉を吐いているようにも見える。本来、頭の中にひっきりなしに浮かんでくるフワフワした事象や感情を言語化するにはそれなりの時間が必要とされるはずなのだ。

自分も含め、SNSに何かを投稿する前に少なくとも1度は読み返して、自分がたった今綴ったばかりの文字たちをじっくりと眺めてみてはいかがだろうか。誤字脱字が見つかるかもしれないし、読み直すと自分が意図したかったことから大きく逸脱していることだってあるかもしれない。

そして疲れたな、と思ったらアプリをアンインストールするなり、携帯を数日間見ないことにすればいい。SNSがこのまま野放しにされたまま、というのも考えにくいのがいかがなものか。

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