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Everything Everywhere All at Once で世を捨てる

【ネタバレ】
✳︎この一文はネタバレを含みます。まだ観てない人は読んじゃダメ。おじさん言いましたからね。

なんかすごい面白い映画があるらしい。昨年のいつだか、TBSラジオ「たまむすび」で町山さんが紹介してくれていた長い名前の映画のことがずっと気になっていました。

かなり癖のある映画をインディから送り出し続けるA24制作の低予算カンフー映画で、流行りのマルチバースで、言っちゃ悪いけどピークをすぎたおばさんおじさんが出ている映画なんだと。

オスカーのノミネーションも相まって私の心の中では期待値が上がり続け、ようやく迎えた3月3日の公開初日。仕事終わりのレイトショーで観たEverything Everywhere All at once は本当に素晴らしい作品でした。

ところが翌日からのPodcast、YouTubeでの感想は賛否真っ二つに別れ、「はまらなかったけれど良い作品である」「好みじゃないが革新的だと思う」という比較的真っ当な感想から、次第に「全く理解できない。つまらない」「オスカーのノミネーションだから観にきたが途中で帰った。金返せ」という品のないコメントが目立つようになってきます。まったく世を捨てたくなりますね。

わからないからつまらないのか

Yahoo映画での評価点は最後に見たときには2.9でした。およそ60%以上の方が、平凡かまるでつまらないと評価したことになります。これがロッテントマトみたいな比較的映画をよく見る人が使うサイトではなく、Yahooという日本人一般層が一番気兼ねなくコメントをつけられるサイトというのがミソで、ここらが1番平均的な評判なんじゃないかと思います。

最も多くのコメントに見られたのが「途中まで頑張ってついていこうとしたが最後までわからなかった」というもの。次に多かったのが「あまりに品のないギャグが続き、犬を虐待するシーンに至っては席をたった」という描写への批判。

そしてオスカーをエブエブが席巻するに至ると、TwitterやYouTubeでの論調は、オスカーは「トップガン・マーベリック」が獲るべきだったし、エブエブは「ポリコレポイントを狙ったシネフィル向け自己満足映画である」という聞くに耐えない悪口へと変質。

映画批評をする人たちの間でも賛否は割れ、肯定派の人でも「良い作品だけど観る人を選ぶ」「お下劣ギャグや動物虐待ブラックジョークがダメな人にはおすすめできない」等の注釈をつけて、何か不純なものを混ぜた金塊のような扱いをするコメントが目立ち、はっきりとエブエブを面白いと明言されたのは高橋ヨシキさん、宇垣美里さんぐらいだったと思います。

日本では今、新しいもの、わからないものを楽しもうという感性がゆっくり摩耗していってると感じます。個人的に。原因を探せばいくらでもあると思うけれど、その一つに「わからないものはつまらない」という感性が、ある一定の人々に根強く広がりつつあるんじゃないかと。「あ、エブエブわからなかった?オレもオレもー。あれつまんないよねー」という共感を生むような感性が。

YouTubeなどで考察動画を上げられている方々の努力である程度、この革新的な作品の小ネタ、構造がわかりやすく解説付きで見ることができるようになってきました。ところがこうした解説にすら「シネフィルしか楽しめない引用」より「シンプルながら力強いストーリーがいいに決まってるだろ!オスカーはポリコレ!」みたいなコメントがついてしまう。ここでエブエブの良さを一つでも認めたら負けなんじゃい!みたいな。意固地を圧力鍋で煮詰めたようなマイナスの感情を感じます。

これってまさにネット。そしてエブエブはまさにこのネットをマルチバースとして描いた革新的な映画なんだと思います。

あったかもしれない未来がSNSに

私を含めこの作品を観て感動した人の心の中には、まさにSNSで目にする他人の人生に、あったかもしれない自分の未来を見ながら、それでも今の、もしかしたらボロボロだけど、それでも今まで歩んできた人生じゃない懸命に。行くしかない。いや、行こう。という感情が生まれたのだと思います。

エブリンが全てのマルチバースにアクセスしてそのスキルをインストールできるのは、今のエブリンが最も失敗したエブリンだからという説明がなされます。この時点で観客は笑っているんだけれども、次第にこのマルチバースが、あり得ないほどの突飛でリスキーな行動を取ったがゆえに、いつの間にか大きく分岐していった人生のメタファーになっている事に気づく。本当ににいつの間にか、です。自分はそうしなかったのだと。チャレンジしなかったのかもしれないと。

そしてアジア人の、それも全盛期を過ぎたと思われている女優を主役に、俳優を諦めていたかつての人気子役アジア人を助演に、ジャンル映画でかつて活躍した女優を助演にと、あり得ないほどの突飛でリスキーなキャスティングの今作が、低予算のお下劣ギャグを偏愛する若き2人の監督の才能によって、そのキャリアが大きく分岐し、今あり得ない程に輝いているのだという事に気づくのです。

これは多くの方が指摘されているように、キャストの人生も作中のミシェル・ヨーのようにマルチバースとして内包する構造になっている。難民としてサバイブしたキーホイクアンもそうです。高い声のとっても優しくて、でも炭火のような暖かい心を持つ彼が、長い長い不遇の時間を経て今ウエストポーチを振り回している。最新の、気鋭の、若い若い監督の映画で。だからこそ彼が終盤放つセリフ、(どんなに不遇でも)「優しくならなくっちゃ」が涙腺を破壊する。

同い年の私には健康保険が切れそうな状態だった彼が、どんな気持ちで今作のオーディションを受けに行ったかがわかります。懸命に、懸命にチャレンジしたんだと。51歳で。だからこそ、引退したら?と言われたというミシェルの「あなたが1番輝ける時期はもう過ぎたなんて誰にも言わせないで」というオスカーでのスピーチに、この作品を肯定してきた人ほど涙するのは、誰かのSNSを横目にそれでも今を懸命に生きているからこそなのだと思います。おじさんおばさんが号泣しているのはここなのです。

エブエブは本当にマルチバースなのか?

エブエブのマルチバースを的確に表現しながら、まずわかりにくいと言われる小ネタというか、監督であるダニエルズの偏愛する映画のパロディ、サンプリング的手法があると思います。クエンティン・タランティーノ的な引用と再構築をさらに加速した感じでしょうか。もはや沢山の方が引用を解説してらっしゃいますので、私がイメージした作品を紹介したいと思います。

閉じられた学園祭前日をループする懐かしの「うる星やつらビューティフルドリーマー」では終盤、主人公が冷凍カプセルから目覚めたり、フランケンになったりと夢の世界を次々と移動するも、んな訳あるかーい!と暴れると美術セットが倒れるという場面があります。ダニエルズはギャグセンス含めてこのノリに近いのかな。満ち足りた夢の世界から、それでも現実を選択するラストはエブエブと重なっているなぁと。もちろん今敏監督もあると思います。

特にエブエブ否定派の批評家に評判が悪かった点は「小ネタが多すぎるし、わからない。また、わかってもらおうともしていない」。マルチバースの説明としてわかりにくいというもの。でもこれ、私は観終わってしばらくしてから、前述のビューティフルドリーマーのイメージもあって、実はこの映画はマルチバースの映画ではないのではないかと思うように。

ダニエル・クワンのインタビューでも語られているようにADHDについてのいくつか調べていくうちに自身がADHDの診断を受けたとのこと。いくつものあったかもしれない自分が重なり合って映し出される場面は脳内でのフラッシュバックなのではないか。そう考えると、エレベーター内から始まったフラッシュバックは、エブリンが「話聞いていますか?」と尋ねられてから顕著になる。そして1週間後に皆で税務署を訪れて再び聞かれる「話聞いていますか」までのエブリンの心の中でだけで起きた、想像と妄想のフラッシュバックなのではないか。

コインランドリーのおばさんにそんなイマジネーションあるかなと思いながら、ふと最初にカラオケの経費が認められないの下りで、読み上げられるエブリンが自称していて成し遂げられなかったいくつかの職業のなかにそれがあったのを思い出す。そう確かあったはず。小説家。

マルチバースじゃないエブリンのフラッシュバックだと読み解くとすると、ウェイモンドがいつかエブリンに話してくれた宝石のような言葉だったのではないか?忙しく、ランドリーと納税の毎日のなかで忘れていたこの言葉がふと表れて、娘への愛情をどう伝えるかに、やっと向き合ったのではないか?そんな風にも思えたりします。おそらくそう作られている。すごい脚本です。

アメリカ文学の優しくあれという哲学

20世紀アメリカ文学の巨人カート・ヴォネガットの引用からウェイモンドの「優しくならなくっちゃ」につながっているというのは、もうすでに多くの方が前提とされていることですが、これはつまりダニエルズのどちらか、あるいは二人ともがアメリカ文学にある程度の素養を持っているということだと思います。けれどヴォネガットの「愛は負けても親切は勝つ」という名言がエブエブの優しさの原点とするのはちょっと違う気がして。

エブリンはマルチバースだったにせよ、フラッシュバックだったにせよウェイモンドの優しさに気づく。どんなに頼りない夫だったとしてもです。愛は負けておらず、国税局でトイレにいくウェイモンドにキスをする。そうだ。そうだよな。ヴォネガットの親切以上の感情がここで描かれているなと。これを観て最初に思ったのが、ああこれはアン・タイラーだと。


アン・タイラーの代表作「ブリージング・レッスン」は中年女性の主人公マギー・モランが幼なじみの夫の葬儀に行くまでの1日を描いている作品で、映画好きなら「偶然の旅行者」の原作者といえばお分かりになるかもしれません。マギーは落ち着きがなくておっちょこちょいでドジばかり。もちろんADHDとははっきりと描かれていません。

結婚28年目の夫のアイラは医者の道を諦め、息子のジェシーはロックスターを夢見て高校を中退し結婚後に子供が1歳になる前に離婚。もう何というかアメリカだなあという小説なのですが、日常の回想がフラッシュバック的に挿入され、葬儀に向かう途中でアイラと結婚していなかったらどんな人生だったろうと想像してしまう。

Everything Everywhere All at once の余韻は驚くほどこれに似ていて、ダニエルズの二人がアン・タイラーを読んでいたかはわからないけれど、アメリカ現代文学が持つ「優しさという哲学」に少なからぬ影響を受けていたの間違いないと思います。これだけメチャクチャな映画のそれでも二人が描きたかったもの。それが優しさなのだから。アメリカに育った彼らの根底にアメリカ文学が持つ哲学がしっかりあるのだと思います。お下劣ギャグはこの優しさを描きたいからこそのデコレーションなのかもしれません。最後にこの小説のラストを引用して、この2020年代を代表するであろうエブエブの評としたいと思います。

「アイラはベッドの上にあぐらをかいて、トランプをしていた。(中略)「ねえアイラ」とマギーは夫のそばにどさっと腰を下ろした。「私たち二人、これから何を目当てに生きていったらいいの?これから先ずっと?」カードの列が乱れたがアイラはそれを直そうせず、代わりに片手でマギーを引き寄せた。

ゲームは佳境に入っていた。どんな数字も自在に動かせるかに見える初期の段階を過ぎ、選択の余地が狭まり、的確な判断がものを言う段階になっていた。ここが腕の見せどころだ。マギーは、心弾むような、かすかな高揚をおぼえ、顔をあげてアイラの温かい頬にキスをした。

それから、アイラの手をするりと抜けると、自分のベッドに入った。明日はまた、長い車の旅をしなければならない。そのためにも、今夜はよく眠っておかなくては。」

#映画感想文





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