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泣き笑いの幼少期と義務教育時代:Aizackの自分史


はじめに

こんにちはAizackです。過去数本記事を投稿しましたが、自分自身の紹介が不足しているのではないか、と感じたため今回からはしばらく「自分史」を書いていこうと思います。

30年近くあるものですから、事細かに書いていてはいつまでかかるかわからないため全3回を予定しています。今回は幼少期〜義務教育期間までの私について書いてみようと思います。覚えていないことも多いのですが、周囲から聞いたことも含めながら私がどういう人間だったかを書いてみようと思います。

幼少期

母方の実家がある長崎県の壱岐島で生まれ、両親の都合で福岡県にある父方の祖父母の家に移住。その後はそこで育ちます。幼児教育が始まる以前はどちらかといえば福岡より長崎に縁があったため、今でも故郷というと島で見た海や港、空を飛ぶ鳶の鳴き声の風景が脳裏に浮かびます。

福岡に引っ越して幼稚園に入ってからも母方の実家には何度も訪ねているのですが、その頃には園内で福岡の方言を学んだようで「田舎者の言葉になったね〜」と笑われたようです。特に方言が強い地域で訛りの強い祖父母に育てられたためでしょう。

当時兄弟はいませんでしたが、自営業だったため家族は忙しくしていました。そのため、同級生の家で預かってもらったり家族の仕事を眺めながら静かに本を読むことが多かった記憶です。近所に同級生が少なかったため、自宅のテレビや絵本や漫画・学研の図鑑などが暇つぶしのお供だったと記憶しています。

義務教育期間(小学校)

小学校にはいると保育園に通っていた子どもたちも合流し、大所帯のクラスとして生活することになりました。当時としては珍しく1クラス40人近く在籍しており、クラスを分割するといった話もあったそうです。

低学年(1〜2年生)

この頃は、自分の生活する地区に馴染めずに困っていました。ほぼ1人っ子(入学直前にきょうだいが生まれた)で我が強かったためか、同地区のお兄さん方と仲良くなれず、何度も泣かされ、集団登校に入れてもらえなかったのを覚えています。運良く、隣の地区の6年生に拾ってもらえたおかげで嫌な思いをすることなく学校へ通えるようになりました。

この頃は落ち着きがなかったようで、2年生に上がった直後に担任の先生に「話が聞けないのなら1年生やり直す?」と叱られたのを今でも覚えています。泣きながら机にしがみつき、嫌だ嫌だと騒いで謝り、なんとか2年生にいさせてもらいました。当時担任をしていただいた先生にはご迷惑をかけました。

中学年(3〜4年生)

低学年までの私は好き嫌い、特に食わず嫌いが多く、食事があまり好きではありませんでした。それが一転、この頃からなぜか食事が好きになり、学年でも細く小さい子だったのが肥満児の仲間入りをしました。当時単身赴任の父が住んでいた東京へ夏休みに出かけ、そこで美味しいものを食べたのがきっかけではないか、というのが母の証言です。

私の地域でスポーツといえばサッカーが主流で、クラスの半分近くは地元のクラブチームに所属していました。私も加入したかったのですが、自営業だったため、クラブチームだと試合や練習の手伝いなどの親の義務ができないという理由で母に断られました。参加できず疎外感を感じていたのを今でも覚えています。

その代わりに空手を習うことになりました。親戚に空手の師範代がおり、その方の子ども(又従兄弟)とも仲が良かったためです。当時、K-1で有名になった極真空手のアンディ・フグにあこがれて、踵落としばかりを練習していました。師範代には「試合で使えないのに・・・」と思われていたでしょう(苦笑)。

習い事というより遊びに行っている感覚だったと思います。(だって全く上達しなくて、練習を見た父に呆れられたので)

高学年(5〜6年生)

小学校時代の私は喜怒哀楽が激しく、リアクションが大きいためイタズラの対象になることが多かったと記憶しています。友達の家に遊びに行っても、誰の気配もない。呼びかけると反対側からクスクスと笑い声が聞こえるので、追いかけるとそこに友達が居て笑われている。こういった今考えればギリギリのイタズラによくはめられていました。

頭に血が上りやすい性質で、カッとなると周りが見えなくなりました。何度も揉め事を起こして、両親に頭を下げさせてしまったのを覚えています。私はからかわれて怒っただけで、悪くない。そう思っていましたが、結局空手を習っていて手を出してしまったのは私。そんな私を両親は辛抱強く叱り、説得し、挑発に乗るなと教えてくれました。特にこの頃には身体も大きくなっていたので相手に大怪我をさせる危険もあったためです。

卒業をする頃にはある程度、自分の気持ちをコントロールする方法は教わり、うまくいくようになってきました。ところが、周囲からの扱いは変わらず、からかわれる・イタズラの対象にされるのは続き、そこに悩みました。卒業式の後、親子参加の懇親会で、頼んだ飲み物が私に回ってこず、私の手前までリレーされては別の方向に流れるといったイタズラも経験しました。(これ、今考えればいじめギリギリでは?)特に母親の前、友人の親前で行われたことがショックで中学は越境通学するかどうか悩むほどでした。

義務教育期間(中学校)

結局越境通学は諦め、地元の公立中学に入学することになりました。私達の学年は前評判が最悪で、荒れた世代になると噂が流れていたため、校内最強の先生方を集めて対応してくれたようです。噂通り、1年生の頃は教室の扉が吹っ飛ぶ、壁から牛乳を隣のクラスに流し込む、列車という謎の遊びでけが人続出などトラブルが多発。毎週のように学年集会が行われていたことを覚えています。

中学校から部活が始まり、当時流行していた漫画の影響でテニス部に入ったのですが、顧問が不在・部長の独裁・コートが1面のため強くない部員は球拾いのみという全く楽しくない環境でした。代替わりしても結局あまり楽しめないまま部活は終えました。実力主義(練習の機会は不平等)で大人不在だったので、楽しめた人間とそうでない人間を2分しました。もちろん、私は上達することもなく楽しめないまま卒業しました。いい思い出ありません。

不登校をはじめて経験したのも中学でした。きっかけは林間学校の帰りのバス。前日に「お前、誰好きなの?」といって話した秘密が、なぜか私の結果だけ紙に相手の名前入りでバスじゅうに回されていました。もちろん、結果は阿鼻叫喚。名前が書かれた相手は恥ずかしくて「人生終わった!」と叫び、泣き出し、それを聞いた私はいたたまれずに小さくなって早くこの時間が過ぎることを祈るばかりでした。その後は、担任によって騒ぎは沈静化され、犯人と被害者たちはそれぞれ教員と面談。ことは収められました。素早い対応のおかげで、私の傷は浅く登校復帰までは比較的早かったはずです。

最終学年になる頃には生徒会にも入り、勉強こそ真ん中あたりでしたが、それなりにトラブルはありつつも楽しい3年間になりました。

おわりに

幼少期から義務教育期間を振り返ってみましたが、いかがだったでしょうか?私としては、そんなこともあったなぁ、という気持ちとともに、今考えるとマズくない?のオンパレードに若干引いています。もちろん、プライバシーには配慮してぼかして書いていますが、ここに書けない色々もあるので……

なんにせよ、こういった子ども時代を過ごして今の私があります。我慢の聞かない、感情の起伏が激しかった幼少期。そこから我慢を覚えつつ、トラブルに直面しつつも両親の教えを守ろうと頑張った義務教育後半、我ながら頑張ったなという印象です。

読者の皆さんからすると他人の人生なので、面白いのかわかりませんが、時間つぶし程度になれば幸いです。

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