母が亡くなるまで・亡くなってからの日々

今年の春に母がガンで亡くなった。数年前から一人暮らしをしているためか、葬式から数ヶ月経ってもいまだに実感がない。でも実際は、母が亡くなる前よりも寝つきが悪くなったし、早い時間に目が覚めるようになったし、何をするにしても気力がわかなかったりと、身体や心に確実に影響が出ている。ときどき母が夢に出てきて、そのときは言葉で言い表せないほどの悲しい気持ちで目が覚める。

母のガンが判明して以来、ふとした時にブログや掲示板、YouTubeで家族を亡くされた方の記事や動画を見ていた。なぜそんなことをしていたのか自分でもわかっていなかったけれど、親の死との向き合い方や自分の心の守り方を無意識に探していたのかもしれない。おかげで、気持ちが少し軽くなっていたと思う。noteで書くには楽しい話題ではないけれど、自分の気持ちの整理のため、家族を亡くされた方にとって少しでも何かの役に立てば、という自己満足のため、母が亡くなるまで、亡くなってからの日々を振り返ってみる。

ガンの発見から入院、通院治療への切り替えまで

母にガンが見つかったのは去年の夏の終わりだった。以前から胃が痛くて病院に通っていたそうだけれど、ある日の血液検査でガンが判明した。検査の結果、ステージⅣの悪性リンパ種とのこと。母の病状について父から電話で聞いたとき、あまりに唐突すぎて悪い夢でも見ている気分だった。すぐに入院して治療することのことだったけれど、その日は母がいなくなる未来を想像してしまって一晩中泣いていた。

入院してからは抗がん剤による治療が始まった。治療中は免疫が落ちてしまうこと、また新型コロナへの感染防止のため面会は一切禁止されていた。実家にいる父や弟は着替えを渡すタイミングで本当に少しの時間会うことができたようだけれど、自分は母にまったく会えなくなってしまった。スマホは使っていいらしく、母からは体調や検査内容についてのメッセージが毎日のようにきていた。治療は身体への負担がとても大きいらしく、メッセージには泣きたいとか痛いとか耐えられないとか、母の悲しさがつまっていた。顔を見せられず、母の気を紛らわせるような言葉も思いつかない自分に腹が立ち、無力さを思い知らされているようで悲しかった。

秋の終わり、ガン治療の成果があまり出ていなかったため、よりガン治療に強い病院へ転院するタイミングで3日ほど母が一時帰宅することになった。平日だったけれど休暇をとり、帰省して母へ会いにいった。電車で実家にむかっている最中は、母に会いたいけれど会いたくないという複雑な気持ちだった。もし母の姿を見たら、母はもう死んでしまうかもしれないということを受け入れるしかなくなりそうで、それがとても怖かった。数ヶ月ぶりに会った母は、前より少しやせていたけれど元気そうだったので少し安心した。久しぶりに話をして、それから電車に乗ってデパートへ買い物や食事をしにいった。楽しそうな母をみて、口に出していいのか迷ったけれど、ガンが治ったらまた一緒に出かけようと約束した。

転院してからはより強力な抗がん剤を使った治療が続けられていた。母は年末年始も病院で過ごすことになっていたので、帰省しても母に会えないということが引っかかって、帰省するか悩んでいた。ただ母からは、父や弟が寂しいだろうから実家によってほしいと言われたので、結局帰省することにした。母のいない年末年始は、寂しさはもちろんあったけれど、家族と数日間すごすことができてとてもリラックスできた。離れて暮らしていても、自分にとって家族は心のよりどころなんだなと改めて実感した。年始には実家近くの神社へお参りし、母の回復を願った。

母のガン治療が始まってから約半年たって、治療の効果が出てきたので通院治療に切り替わった。ガンの完治はまだ先だけれど、このときは本当に嬉しかった。家族全員、心から喜んでいたと思う。この時期はフルマラソンに参加する予定でそれに合わせて帰省する予定だったけれど、新型コロナの影響でマラソンが中止になってしまったので帰省は見送ることにした。母からは手紙がきて、GWか盆にまた会えることを楽しみにしていると書かれていた。

再入院、最後の思い出、お別れ

通院治療に切り替わってから数日たったころ、急遽再入院が決まった。ガン細胞が急激に増加しているので、また集中的に治療するとのことだった。父からは、万が一のときはすぐに帰省してほしいと言われた。このころどんな気持ちだったのかは、正直なところ覚えていない。心の余裕がなくて、とにかくイライラしていた気がする。

そんな中、母がまた一時帰宅することになった。詳しいことは聞かされていなかったけれど、完治の見込みがないのでせめて家族とすごす時間を作ってあげたいという病院側の配慮だったのかもしれない。父からは治療法を切り替えるためと聞かされていたけれど、本当のところはわからない。

すぐに帰省したけれど、母は前に会ったときとは比べられないほどやつれていて、かける言葉が見つからなかった。ふっくらしていた頬はげっそりとしていて、まるで急激に歳をとったようだった。元気そうではなかったけれど、それでも自分の顔をみた母は嬉しそうだった。それから、本当に久しぶりに家族全員でご飯を食べた。風呂に入り、母へおやすみと言ったあと、自室に入って一人きりになってから、声を殺して泣き続けた。帰り際、どちらが言い出したわけでもないけれど母と抱きしめあった。泣いてはいけないと思いつつも、涙が止まらなかった。

これが、母との最後の思い出になった。自分が帰ってから数日後に再入院した母は、それからしばらくして息を引きとった。

葬式、整理、そして今日にいたるまで

父から連絡をうけて、すぐに母のいる病院へ向かった。病院へ着くと弟が待っていて、母のいるところまで案内してくれた。まだ現実を受け入れられていなくて、実はドッキリなんじゃないかとか、そんなことを考えていた。正常な精神状態ではなかったと思う。

母の居場所は病院の受付からずいぶんと歩いた、奥まった部屋だった。部屋の中で母はベッドに横たわっていて、まるで寝ているようだった。母を見たとき、涙は少し流れたけれど、自分で想像していたほど取り乱すことはなかった。ただ椅子に座って、ぼーっと母を見つめていた。父は葬儀屋の手配で忙しそうにしていた。憔悴しきっているのが表情からわかった。弟はひたすら俯いていた。しばらくしてから、父の手配した葬儀屋がやってきて、母を車に乗せ斎場へ向かっていった。すぐに葬式の段取りを決める必要があったので、自分達も斎場へ向かった。

母が亡くなったというのに、悲しみにふける余裕もなく葬式の段取り決めをしなければならないのはつらかった。日取りや供花、通夜振る舞いや精進落としなど、決めることがこんなに多いとは思ってもいなかった。葬式関連以外にも、納骨の段取り、保険金の申請、母のクレジットカードや定期購読の解約、母の友人への連絡など、やることが山積みだった。特に一番気を遣ったのが母の友人への連絡だった。母から友人の話はよく聞いていたけれど、あだ名で呼ばれていたのでスマホの電話帳に載っている人のうちの誰がその友人なのか特定するのがまず大変だったし、どう切り出したらいいものか非常に悩んだ。最終的には、母の姉妹経由で友人の方々に母の訃報を伝えることができた。

火葬の日、母の入った棺に花を入れたとき、せきを切ったように涙があふれて、父や弟がいようがお構いなしに泣いた。もしかしたら人生で1番泣いたかもしれない。泣きながら、自分ってこんなに涙を出せるんだな、とどこか冷静な自分がいた。火葬を終えて遺骨を実家へ持ち帰ったあと、今まで取り乱さなかった父が声を出して泣いた。こんな父を見たのは初めてかもしれない。人生のパートナーを失ったつらさは、想像できないほどだろう。父と弟と、なぜか肩を組んで泣いていた。はたから見れば円陣のようだなと思ったけれど、これからいろいろなことを乗り越えていくぞ、という意志で自然と円陣を組んだのかもしれない。

先日初盆を終えたけれど、悲しみはほとんど薄れていない。母にもう一度会いたい、話したい、声を聞きたい。毎日ではないけれど、母を偲んではそう思わずにはいられない。それでも母をあの世で送り出すための準備で何かと忙しかったから、家族や友人が心の支えになってくれたから、何とか心は折れずに過ごせている。

母が亡くなってから、生活や気持ちに少し変化があった。まず、冒頭に書いたようになかなか寝付けなくなって、普段より早く目が覚めるようになった。他には、今までは憂鬱だった月曜の朝が憂鬱ではなくなった。というより、仕事で気を紛らわせるから気持ち的に楽、ということだと思う。もともと自発的な方ではなかったけれど、今まで以上に自分から何かしようという気持ちがなくなった。ただ幸いなことに、趣味のマラソンやバイクツーリングに誘ってくれる友人がいるので、引きこもりにはならずに済んでいる。友人たちには感謝しかない。最後に、実家から自宅に帰るとき、父に見送られるとき、どうしようもなく不安な気持ちになるようになった。父はもう若くない。父にあと何回会えるのか、そう考えると不意に涙が出てきてしまう。

悲しみは時間が解決する、とよく聞く。実際そうなんだろうけれど、自分の場合はどれくらいの時間が必要なのか検討もつかない。父や弟も、きっと同じことを考えていると思う。母の死をきっかけに、家族の距離が今までより近づいたような気がする。いつ解消されるかわからないこの悲しみは、家族みんなで支え合いながら乗り越えていきたいと思う。

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