見出し画像

ささやかな貝塚をつくる大晦日

大晦日の昼、牡蠣小屋へ行った。夫と夫の父母と姉と私と、5人で。

広島にある夫の実家から、車に乗って出かけた。ついた先ではだだっ広い駐車場の隅に小さなプレハブが建っていて、車から降り立つと潮の匂いがした。牡蠣を焼いているからそんな匂いがするのだと思ったら、建物奥の石壁の向こうは、ほんとうに海なのだった。

牡蠣小屋に行くのは初めてである。
地元でもときどきそんなようなことを謳ったお店は見かけていたけれど、あくまで繁華街のなかの居酒屋のひとつ、という風情であった。海のはたにぽつんと建った、文字通りの小屋で牡蠣を喰らうなんて、本気度が違う。牡蠣のためだけにある場所、という感じがする。

入り口で食券を買い、5人でひとつずつ、青いポリバケツをもらった。バケツの中にごろごろ入っている牡蠣を網の上に並べて、座席の横に置いてある大きな蓋(というよりは、巨大な空き缶に取っ手がついたような代物)を被せ、しばし待つ。

そうして焼きあがった牡蠣の身は、殻の中で蒸されてぷっくりと膨らみ、襞の部分に香ばしい焼き目がついている。火傷しそうな熱さにひるみながらも思いきって頬張ると、先ほど外で嗅いだのと同じ、海の匂いがした。

その香りに魅せられたあとはもう、流れ作業である。
軍手をつけた左手で牡蠣をむんずとつかみ、右手で殻の間にナイフをねじ込む。卓上に用意されている醤油やポン酢、別料金で手に入るバターやレモン果汁を気の向くままに使いながら、焼き立ての身を次々と口の中に滑り込ませる。食べるのと並行して次の一群を網の上に置き、蓋をする。ほかにもやることはたくさんある。調味料をやりとりしたり、追加の牡蠣入りバケツを取りに行ったり、自販機で日本酒やお茶を買ってきたり。なんて忙しい。

テーブルの横には一斗缶が置かれていて、食べ終わったあとの貝殻をどんどんそこへ放り込む仕組みになっていた。なんでこんな大きさの、と訝っていた巨大な殻入れに、中身を喰いつくされた抜け殻があっという間に積みあがって山のようなありさま。
メニューにはカキフライやオイル漬けなんかもあったけれど、山が高くなっていくのがうれしくて、ひたすら焼き牡蠣だけをつるつると飲み込み続けた。不思議の国のアリスに出てくる、セイウチと大工みたいに。

セイウチのことを思い出したからか、食べていくうちになんだか、動物的な気分になってきた。海のはたに人がたくさん群がって、磯から上がってきたばかりの貝を山ほど火の上に並べ、焼きあがる端から殻をこじ開けて食べている。食べては焼き、焼いては食べて、すべての人の食欲が満たされるまで、無心に殻が積み上がる。海のにおいが建物のなか、身体のなかに立ち込めてゆく。

ここへは自動車でやってきて、レジでは電子決済が使えるし、店内には暖房がきいている。それでもその中で行われていること自体は先史時代から変わっていない、ということが、ひどく不思議に思えた。火を熾し、生きものを焼いて食べ、殻を捨てる。宴の隣に、うずたかく殻が積みあがっていく。ひどく不思議で、どこか安らかな気持ちになった。

貝塚ってこうやってできたんだろうな。

くちくなったお腹を抱えて、唐突にそう思った。と同時に、ある風景が目に浮かぶ。水が温みはじめた春先に、ちいさなプレハブは手練れのサーカスのごとく鮮やかに消え失せる。そしてあとに残るのは、その冬焼いて喰われた牡蠣たちの殻でできた大きな大きな貝塚――そんな風景が。

実際のところ私が今日作ったささやかな貝塚は、退店すればすぐに片付けられ、ごみ処理場へ運ばれてしまうのだろうけれど。

おかしな想像をどうしてもやめられないまま、海辺の年が暮れていく。



この記事が参加している募集

おいしいお店

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?