見出し画像

苺のイデアを見つけた話


昼休みに所在なくTwitterを遡っていたら、苺のイデアを発見してしまった。


言葉を正しい意味で使おうと心がけるのならば、もちろん、イデアではない。
それはあくまで非物質的な観念、理念であり、まかりまちがってもしがない会社員が食休中に操作するスマートフォンの液晶上に立ち現れるようなものではないのである。もし立ち現れたら多分プラトンが号泣する。私はプラトンのことをけっこう好きなので、できれば泣かないでほしい。

けれど、他にふさわしい言葉を知らないのだから仕方がない。
私はタイムラインのなかに苺のイデアを発見してしまった。


1.ロイヤルクイーン!
あなたロイヤルクイーンっていうのね!


敬愛する小説家のひとりである千早茜さんが、こんなツイートをしていらした。

記事の内容も気になるものの、私の目はガラスの器に盛られた苺に吸い寄せられた。

だって、なんて完ぺきな形!
さくさくした食感と練乳味のもろもろした中身がおいしいあの「いちごみるく」キャンディみたいに、イラストのなかでデフォルメされた苺みたいに、丸みを帯びたきれいな三角形、ぴんと勇ましく尖ったヘタとのコントラスト。

それに、その色艶ときたら!
ヘタのきわのきわまで鮮やかで深い赤色に染まって、きらきらと輝いて見えるのは普通に考えればぴんと張った果皮に日光が映っているのだろうけれど、画像を大きく表示させてじっと眺めていると、中に湛えた甘い果汁がゆらめいてひかりを反射しているようにも思えてくる。

ゼリー菓子のような、大粒のガーネットやルビーのような、でもまぎれもなく生命力たっぷりの、くだもの!


私は悟った。
この写真に写っている物体こそが、今まで私が「苺」という言葉を耳にし、または口にするときに思い浮かべていたものそのものだと。


苺のイデアである。


私が文筆家としてだけではなく、食いしん坊としても尊敬してやまない千早茜さんは(失礼)、さすがというべきかツイート内にイデア苺の品種を書き添えてくださっていた。

ロイヤルクイーン!
あなたロイヤルクイーンっていうのね!

一体どのような味がするのであろうか。
逸る気を押さえながら粛々と、Googleの検索窓に「ロイヤルクイーン」と打ち込んだが、探せども探せども発見できない。
いや、この品種の苺を販売しているサイトは見つけたし、商品画像も説明書きも大変おいしそうではあった。
けれど、先ほどのツイートを目にしたときのときめきをもたらしてくれるページは、ついぞ見つけられなかったのである。


言葉を自在にあやつり、自分の哲学を形にできる限られたひとのところにしか、イデアはやってきてくれないのかもしれない。


2.苺と、苺ならざるものに関する考察


苺のイデアはなにゆえに、私をかくも興奮させたのか。

別に、くだものの中で苺がいちばん好きだ、というわけではない。
好みでいえば、どちらかというと秋のくだものの方が好きかもしれない。素朴な見かけからは到底想像のつかない高貴な香りと、したたるほど豊富な甘い甘い水気を秘めた梨。ベルベットのような奥深い闇を抱いた果皮と濡れてひかる半ば透けた果肉のコントラスト、舌にのせたときのつめたさにうっとりする黒ぶどう。ぷちぷちした種ととろりとほとびるような果肉を口に含んだときの、清涼ながらどこか色香のある風味が癖になるいちじく。

でも、見つけたのが梨やいちじくやぶどうのイデアだったとしたら、私はあれほど目を瞠っただろうか?

瞠っていない気がする。

なぜだろうか。
見た目のせいかもしれない。確かに秋のくだものは、趣深い外見をしているとは思うけれども、彩度が低いものが多くどこか地味だ。
苺は小粒でかわいらしく、色もキャッチーな赤色だから、それで心に響いたのだろうか。

じゃあ、同じような特徴を持つさくらんぼ(佐藤錦、お高くてなかなか食べられないけれど、大好き)やラズベリーなら?

瞠っていない気がする。

なぜだろうか。
さくらんぼはなんとなく、いくら美しい姿をしていても、それを当然のことと思ってしまう気がする。色がいまいちだったり、形が崩れている個体をそもそもあまり見たことがないのである。高価な品ゆえに、出荷前に厳しい選抜がされているのだろう。
苺の場合、スーパーで安売りしているものなどはかなり個性豊かな形状をしていたり、あまりきれいに色づいていなかったり、逆に熟れすぎてしまっていたりする(それも愛おしいのだが)。だから、「美しい」個体を見るとそれだけ珍しく感じるのかもしれない。

ラズベリーのほうは単純に、日常生活であまり馴染みがないからだろう。タルトの上に載っていたり、こじゃれた飲み物の底に沈んでいたりする姿ぐらいしか知らないから、すごく形が整ったラズベリーの写真を見かけても「ラズベリーだなあ」で終わらせてしまいそうだ。
その点苺には幼少期からお世話になっている。雑貨や服飾品のデザインのモチーフに多く使われていたり、イラストなどでもよく見かけるから、頭の中に「苺とはかくあるべし」というようなイメージができている。

こう考えていくと、苺はかなりさまざまな条件を兼ね備えたくだものなのだ。

  • 小粒で色鮮やかな、目を惹く姿をしている

  • 価格がピンキリで、庶民である私の口に入る個体には見た目が崩れているものも多い

  • 幼いころから慣れ親しんでいて、デフォルメされたイラストなどを見かけることも多く、頭の中に「理想のイメージ」ができあがっている

以上がそろっているために、理想通りの姿をしている苺を見つけたときにあれだけ感動したのだと思う。


3.苺、かくも魔性のくだもの


・小粒で色鮮やかな、目を惹く姿をしている
・価格がピンキリで、庶民である私の口に入る個体には見た目が崩れているものも多い
・幼いころから慣れ親しんでいて、デフォルメされたイラストなどを見かけることも多く、頭の中に「理想のイメージ」ができあがっている

以上がそろっているために、理想通りの姿をしている苺を見つけたときにあれだけ感動したのだと思う。

……と、結論付けてはみたものの、まだ説明しきれていない部分がある気がしてきた。そもそも私は苺という存在そのものに、不思議な力を感じているようなのだ。

1月の中頃あたりにスーパーへ足を踏み入れて、青果売り場に並び始めた苺のパックが目に入ると、どこか浮き立った気持ちになる。味を想像してではない。「苺の旬が近づいている」、その事実に心が弾むのだ。
すいかや梨やみかんの出はじめには感じない独特の高揚感が、早生の苺にはある。

そこから1月後半、2月……と、徐々に居並ぶ苺のパックはその面積を拡大していき、そして3月。

今、近所のスーパー入ってすぐの正面には、陳列台まるまる1面を使って苺が並んでいる。
とよのか。さちのか。あまおう。とちおとめ。紅ほっぺ。あすかルビー。女峰。
色合いも大きさも価格もさまざまな、苺の洪水。


この季節の私は、スーパーに足を踏み入れた瞬間から会計を済ませるまで、そわそわしている。
キャベツの値段にため息をつき鰯の鮮度を確かめ鶏むね肉のグラム数を見比べ豚ばらの塊肉に発奮し350ミリ缶のビールをバラで買うか6本セットで買うか悩み卵をかごに入れながら総菜売り場に山と積まれた唐揚げに目を奪われ醤油やみりんの残量に思いを馳せつつお菓子売り場をひやかす間ずっと、頭のすみっこに苺がいる。

今日はとよのかが特に安かったな。買っちゃおうかしら。それともいっそ贅沢して、あまおうにしちゃおうかしら。800円くらいしたけど、大粒で真っ赤でおいしそうだったな。

結局買わないことのほうが多いのだけれど、家に帰ってからも、視界の片隅に苺の赤い色の残像を感じる。やっぱり買えばよかったかしら。


このなんとも言えないそわそわの理由は、だんだん暖かくなり春の訪れに向かって浮き立つ気持ちと、苺の青果売り場における勢力拡大がリンクするからか。
ほたるいかやグリーンピースや筍や菜の花や、他の春らしい食材も目にすると気分が明るくなり、無性に食卓へのぼらせたくなるけれど、やっぱり苺は格別だ。

食べれば食べるだけ、春という季節を征服したような、少しあらあらしい、それでいて祝祭然とした気持ちになる。


街を歩くとあちこちのホテルのスイーツビュッフェにアフタヌーンティー、ケーキショップやファミリーレストランに至るまでストロベリー・フェア一色なのを見るに、おそらく同じようなことを感じているひとは多いのだろうなあと思えてすこし可笑しい。
新緑はひとを狂わせるというけれど、苺にももしかすると同じような効果があるのではないだろうか。

かくも魔性の、不思議なくだものである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?