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ビートルズ風雲録(16) アラン・ウィリアムズ、シルバー・ビートルズ

1960年3月、一人の男がエンタメ業界への進出をもくろんでいました。


アラン・ウィリアムズ

天才興行師

1930年、リバプール郊外のブートル生まれ。ビートルズの初代マネージャーとなる男です。
最初は配管工として働いていましたが、20代半ばにクラブの経営に乗り出します。1958年に開店した店の名前は、ジャカランダ・コーヒー・バー。ロイアル・カリビアン・スチール・バンドというグループをレギュラーに、客に演奏を聞かせるライブハウスです。リバプール美術学校に通っていたジョンとスチュアートの溜まり場にもなっていました。
このアラン・ウィリアムズ、1960年1月にはハンブルクを訪れてクラブ経営の偵察をしたりと、エンタメ業界で一旗上げたいと考えていました。その彼が、1960年3月14日~20日にリバプール・エンパイア劇場で開催された、アメリカのロックンローラー、エディ・コクランとジーン・ヴィンセントのコンサートを鑑賞します。
初めて知る本場のロックンロールのパワー、大会場のエネルギー。
「すばらしい! これは、金になる!」
アラン・ウィリアムズは確信します。
早速このイベントを成功させた有名プロモーター、ラリー・パーンズに再演を提案します。いきなり、です。相手は業界の大物です。その大物にリバプールの小さなクラブの店主が、飛び込みでビジネスプランをプレゼンしたのです。
リバプール・エンパイア劇場は収容人数2300人。リバプール最大の収容人数6000人を誇るリバプール・ボクシング・スタジアムで、もう一度ぶち上げましょう!
偉いのはラリー・パーンズです。アラン・ウィリアムズの興行主としての才能を一発で見抜いたのでしょうね。即決GO! そしてチケットは完売。成功は約束されました。

リンゴ・スター、活躍

しかし、、、なんということでしょう。
イベント半月前の4月17日、コクランとヴィンセントを乗せた車が自動車事故を起こし、コクランが亡くなってしまいます。ヴィンセントも大怪我を負います。ちなみに、事故を起こしたドライバーの名前はジョージ・マーティン。後のビートルズのプロデューサー、サー・ジョージ・マーティンとは全く関係のない、当時まだ20歳の青年でした。
もはやイベントの実施は不可能と思われました。しかし、ヴィンセントはなんとか回復。ステージに立ちます。この危機にリバプールの地元バンドも協力します。コクランの穴を埋めるべく、キャス&ザ・カサノバズ、ジェリー&ザ・ペースメイカーズ、ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズが演奏を披露しました。
ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズのドラムは、もちろんリンゴ・スターです。
イベントは大成功。
ただ、残念なことに、ジョニー&ザ・ムーンドッグスは、呼ばれませんでした。
ギター3人に、ベースはほぼ初心者で、ドラムもいない。これではそもそもバンドとして認められません。
ジョンとポールは、ポールの親戚が営む小さなパブで、アコースティック・デュオとして歌唱を披露、この時を過ごしました。

ビリー・フューリーのオーディション

ビリー・フューリー。まさにイギリスのエルヴィス・プレスリーとも呼ぶべき、イギリス・ロック界のレジェンドです。リバプール出身。ビートルズ誕生前の最大のスターの一人といっても過言ではありません。この大物のライブ・ツアーのバックバンドを選ぶためのオーディションを、例の大物プロモーター、ラリー・パーンズが催します。1960年5月10日のことです。
ジョンはこのオーディションに参加するため、アラン・ウィリアムズに協力を求めます。ジョンとスチュアートが店の常連だったという縁から、ジャカランダで演奏を披露することもありました。報酬はコカ・コーラとビーンズ・オン・トースト(トーストにバターをたっぷり塗って、さらに温めたベイクド・ビーンズをたっぷり乗せたイギリスのソウルフード。ベイクド・ビーンズはハインツの缶詰が有名。普通は紅茶と一緒に食べるみたい)だけでしたけど。そんなこともあり、なにかと目をかけている彼らのためにアラン・ウィリアムズはトミー・ムーアというドラマーを世話します。
オーディションは、アラン・ウィリアムズが経営するクラブ、ブルー・エンジェルで行われました。アラン・ウィリアムズはすっかりラリー・パーンズの信用を勝ち取っていたようです。

ドラマーが来ない

そして、オーディション当日。
オーディションには、キャス&ザ・カサノバス、デリー&ザ・セニアーズ、ジェリー&ザ・ペースメイカーズ、クリフ・ロバーツ&ザ・ロッカーズなど、リバプールの多くのアーティストたちが集まりました。
しかし、肝心のトミー・ムーアが会場に来ません。
ドラムがなくてはバック・バンドになりません。しかたなくキャス&ザ・カサノバスからジョニー・ハッチンソンを助っ人に借り受けます。ジョニーは、なんで、こんな素人の助っ人なんか、と不満たらたらだったとか。
結果は、あっさり落選。彼らに未来は開かれませんでした。

シルバー・ビートルズ

さて、その頃、ジョニー&ザ・ムーンドッグスからビートルズに改名しようとしていたジョンとスチュアート。オーディション会場でキャス&ザ・カサノバスのブライアン・キャサーからバンド名を聞かれ「ビートルズ」と答えます。しかし、あっさりダメ出し。虫の名前なんてダメだよ。それに、◯◯&◯◯◯じゃなきゃ、グループ名とは言えないし。「ロング・ジョン&ピーシズ・オブ・シルバー」は、どう? すでにバンドとして実績のある先輩とは言え、ジョンは人の提案をそのまま鵜呑みにできるタイプではありません。一応、先輩の意見を尊重して「ロング・ジョン&シルバー・ビートルズ」で妥協します。しかし「ロング・ジョン」って。。。ちょっと、センスが古いです。そんな感じだったのでしょうね。すぐに「ロング・ジョン」は省略されるようになります。

捨てる神、拾う神

さて、オーディションに落選したシルバー・ビートルズでしたが、5月18日、グループはパーンズに招かれ、リバプール生まれのポップシンガー、ジョニー・ジェントルのバック・バンドとして1週間のイギリス国内ツアーに参加するよう告げられます。どうやらパーンズさん、バックバンドの手配は後回しに、ジョニー・ジェントルだけブッキングしてしまったようなのです。スケジュールの空いているバンドが見つからなくて、アラン・ウィリアムズに助けを求めてきました。そんなこと急に言われても。暇なのはシルバー・ビートルズだけでした。ドラムはトミー・ムーアでよいかな。。。
そしてメンバーには芸名が与えられました。
ポールは「ポール・ラモン」、スチュアートは「スチュアート・ド・スタール」、ジョージは「カール・ハリスン」、ジョンはやっぱり「ロング・ジョン」。いらん名前かもしれませんが。。。
そして、1960年5月20日から28日のツアーを終えてリバプールに帰ってきたシルバー・ビートルズ。ギャラだけでは賄いきれない費用が多く、出発したときより貧乏になっていました。
仕事が欲しい。金が欲しい。
やはりアラン・ウィリアムズが彼らの面倒を見ることになります。
なんとなく、こんな流れでアラン・ウィリアムズはすっかりシルバー・ビートルズのマネージャーになっていました。
そして、アランは彼らに大きな仕事を取ってきます。
それはドイツ、ハンブルクの大きなクラブとの契約でした。
(やっぱり他のバンドのスケジュールが合わなくて、シルバー・ビートルズしか空いていなかったのですが)
さあ、歴史の扉が大きな音を立てて開かれていくようです。


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