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変な人 (6)丸の内線の劇読じいさん

 それはまさに「劇読」だった。

 劇読という言葉が本当にあるか知らないが、目の前の老人はまさに劇読としか言いようのない姿で読書にいそしんでいた。
 年のころ70歳くらい。白髪少々。眼鏡なし。細身。白いYシャツと濃い茶色のスラックス。ヒゲも剃っていて、普通に清潔。荷物なし。
 ラッシュアワーの終わった午前10時ごろ。
 3人掛の椅子の端に座った私の隣、シートの真ん中の席で、その老人は熱心に本を読んでいた。
 180ページくらい。ごく普通の、柔らかい表紙のビジネス書によくある大きさの本だった。
 老人は、その本をまさに一心不乱に読んでいた。
 なぜ、私がわざわざ「一心不乱」などと表現するのか。
 先ほどから「劇読」などという表現をするのか。
 それは老人のページをめくる気合が、とにかく物凄かったのだ。
 もちろん車中で1ページを読み終わるたびに、
「キエー!」
などと気合を発するわけではない。
 その老人は、私が初めて見る作法で本をめくっていた。
 ページを「折る」のだ。
 つまり1ページを読み終わった時点で、ページをめくるのではなく、折る。
 読み終えたページは、表紙の方に1ページずつ山折にされているのだった。

こんな感じでした。

 私の目は、老人の手にする本に釘付けだった。
 まだ読まれていないページから推測するに、すでに3分の1、つまり60ページくらいは読まれているだろう。それが、1ページごとに山折。つまり60ページのスペースに倍の120ページのボリュームとなって収まっている。本の中央から表紙に向かって、まるで扇子を片側だけ開いたように本がパンパンに開ききっている。
 別に人の本だから、逆立ちして読んだって、昔の辞書暗記法みたいに内容を覚えたら食べちゃってもかまわないが、これはやっぱり相当珍しい。
 例によってワタシの頭の中は、変な人に出会ったときの「?」マークと理由探しのシミュレーションでパンパンだった。
 いったいどうして、こんなことをするのだろう。
 読み終えたところには決して後戻りしない、つまりは一読主義のための行動か。
 読み終わった本は、どうやって本棚に片付けるのか?
 それとも捨ててしまうのだろうか?
 疑問が次々に湧いてくる。
 あ、捨てるのはいいが、この本を他の誰にも読ませたくない! そのための作業か。
 最後まで読んで、本の背の部分をカッターで落とすと紙細工の原料になるとか。
 しかしその答えがわかるまでには、老人があと100ページ、本を読むのを(折るのを)待たねばならない。
 いや、彼の家にまでついていかなくては、真実はつかめないだろう。
 わからない。気になって仕方がない。神よ。
 しかし、サラリーマンである私は、後ろ髪を引かれるように仕方なく会社のある駅に降り立つのだった。

(つづく)


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