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ビートルズ風雲録(2) アストリッド・キルヒャー、シンシア・レノン、スチュアート・サトクリフ

「ビートルズ風雲録(1)」では、ジョージ・マーティン、オノ・ヨーコ、ブライアン・エプスタインというビートルズの3大関係者の誕生日を紹介しました。いよいよ、ビートルズ4人の誕生となるわけですが、その前に、さらにビートルズの歴史を語る上で外すことができない人物の誕生です。

1938年 アストリッド・キルヒャー、誕生!

1938年5月20日、ビートルズの公式写真家、アストリッド・ゾフィー・ルイーゼ・キルヒャーがドイツのハンブルクで生まれました。
1956年にマイスタシューレ(職業スペシャリストの大学・専門学校といったもの。ドイツの教育の基本となるマイスター制度は小・中学校→高校→大学という日本の制度とはちょっと違います)に合格し、ファッションデザイン科に進学します。その後、1957年にファッションデザイン科から写真科へとコースを切り替え、1960年にマイスタシューレを卒業。

そのころ、当時の恋人クラウス・フォアマンに誘われ、ハンブルクのレーパーバーンにあるカイザーケラー・クラブを訪れます。そこで初めてビートルズに出会い、メンバーのスチュアート・サトクリフと恋に落ちてしまいます。キルヒャーはサトクリフの髪形を、当時ハンブルクの芸術大学の学生たちの間で流行していた前髪をおろしたスタイルに変えます。これが「マッシュルームカット」と呼ばれるようになります。

1962年に、恋人スチュアート・サトクリフは急死してしまいますが、キルヒャーはそのアトリエで陰影を強調したジョンとジョージの写真を撮影しました。このアイデアは1963年のアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』のカバー写真に生かされることになります。

1939年 シンシア・レノン、誕生!

ジョン・レノンの最初の妻、シンシア・レノン(シンシア・リリアン・パウエル)は、1939年9月10日、ランカシャーのブラックプールで生まれました。父はチャールズ・パウエル、母はリリアン。ブラックプールはイギリス最大の保養地として有名なところです。両親はこのリゾート地のB&B(ちょっとした朝食付きの簡易ホテル)に滞在してシンシアを出産。ほどなく、ホイレイクという小さな町に移り住みます。

シンシアは1957年にリバプール・カレッジ・オブ・アートに入学しました。そこでジョン・レノンと出会い恋に落ちます。二人は1962年に結婚しました。1962年と言えばビートルズのメジャーデビューの年です。もちろん、この結婚はひた隠しにされました。アイドルグループとして売り出そうとしている矢先ですからね。ファンに知られたら大変です。翌年、息子ジュリアン誕生。
しかし1966年11月にジョン・レノンはオノ・ヨーコと出会ってしまいます。
その後の物語は後述するとして、1968年、シンシアとジョンは離婚しました。

気落ちするシンシアとジュリアン。ビートルズの関係者たちは二人と距離を置くようになりましたが、ポールだけは二人のもとを訪れて励まします。そのときに作られた曲が「ヘイ・ジュード」でした。

1940年 スチュアート・サトクリフ 誕生!

スチュアート・ファーガソン・ヴィクター・サトクリフ。のちにビートルズのベーシストとなる彼が生まれたのは1940年6月23日。スコットランドのエジンバラにあるシンプソン記念出産センター病院(のち、エディンバラ王立病院に統合されました)というところでした。父親のチャールズは海軍将校、母親のミリーは学校の教師でした。1943年にサトクリフ家はリバプールに移り住みます。

スチュアート・サトクリフもリバプール・カレッジ・オブ・アートに入学します。そこで同級生のジョン・レノンと親友になるのです。ジョンはサトクリフをバンドに誘います。音楽など特に経験のないサトクリフでしたから、当然ながら担当楽器は地味なベース前提です。1960年、サトクリフの絵が高値で売れました。ジョンとポールは彼にそのお金でベースを買うようにすすめ、バンドに加入することになります。サトクリフはバンド名のアイデアを提供します。バディ・ホリーのバンドである「ザ・クリケッツ(コウロギ)」にあやかって、「カブトムシ=ビートルズはどうか?」と。

その後、サトクリフはビートルズの一員としてドイツのハンブルク巡業にも参加しますが、結局、画家として生きることを決め、ビートルズを脱退することになります。
そのため、ギターを担当していたポール・マッカートニーが仕方なく、不本意ながらベースを担当することになります。当時のジョンはベースを弾くなんて考えもしなかったでしょうし、ジョージは、きっとうつむいてギターを触りながら、この話題には触れないようにしていただろうし。。なんでもできるポールが弾くしかなかったでしょうね。ここにローリングストーン誌の「史上最高のベーシスト50選」の9位に位置する、偉大なベーシストが誕生するのです。ローリングストーン誌いわく「優れたベースラインが持つ無限の可能性を証明した」。納得の評価です。ポールは伝記作家のバリー・マイルズに「当時は、進んでベースを弾くやつなんていなかった」と語っています。

サトクリフは1962年4月10日、ハンブルクで脳内出血で亡くなりました。
1962年はビートルズが「ラブ・ミー・ドゥ」でメジャーデビューした年です。

ビートルズ風雲録を書き進める上で、いずれまたサトクリフに出会うことになります。
その日まで。

ビートルズ風雲録(3)に続きます。


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