見出し画像

なにか作るのも誰かに見せるのもこわかった

ここのところ正体不明の恐怖感みたいなものがくっついていて、ずっとなにかが怖いと感じていた。
本当に自分のことに関して鈍いようで、なにがそんなに怖いのか、なににそんなに怯えているのって自分で不思議でたまらなかった。

いつもよりゆっくり長い時間をかけて自分と向き合って、名前をつけられなかった怖さの正体が少しだけ見えた気がしました。
わたしは最近なにか作るのも誰かに見せるのも怖かったんだなあって。

自分の気持ちを言葉だけで表すのは難しい

以前、あなたは自分の気持ちや思いを言葉にするのが苦手で作品に託す傾向がある、と言われたけど、図星すぎてぐうの音も出なかった。


小さい頃は毎日絵を描いていた。
こどもの言葉だけじゃ伝わらないものも、絵を添えればぐっと伝わりやすくなったから。
それからもなにか作るのは自己表現の手段だった。
自分のことを言葉だけで上手に表現することができなかった。

「言葉」はみんなの共通の認識があるから伝わりやすいけど、そこに当てはまらない微妙な感情や思いを表すには、なかなか使い勝手が悪いときがある。
自分についてあまりにも書けなくて、学校の日報に絵だけ描いて怒られたこともある。あのときの先生、ごめんなさい。


おとなになって自分のお金でカメラを買ってから、その手段はだんだんと写真の比重が大きくなる。
でもわたしはどれも特別に秀でることができなかったから、写真だけでも文字だけでもデザインだけでもダメで。なにか単体で自分の気持ちをうまく伝えることができない。


作ったもの=自分


知り合いと話をしているときに「成果物=自分」というフレーズがでてきて、君もきっとそれで、今は怖いのかもしれないけどなにかしら作っていたほうがいいんだと思うよ、と。

そこで初めて自分の怖さの正体のひとつが、ほんの少し見えた気がした。
作ったものは自分で、だから否定されると自分を否定されたような気持ちになる。

誰かから見たら、これは「怠惰」なのかもしれない。
明確な言葉にせず作ったものに乗っけるなんて、ただの怠け者に見えてしまうのかもしれないと、そんなふうに思っていた。

もっと言葉だけできちんと自分を表現できるようになったほうがいいのかもしれない。
思っていること、感じたこと、ちゃんとぜんぶ言葉にできないといけないのかもしれない。

いつもそうやって焦れば焦るほど、自分の中から言葉が見つからなくなってしまう。
適切な言葉をと探せば探すほど、自分のほんとうの気持ちじゃなくて、よくあるテイの良い言葉になってしまう。


怖さのきっかけはたぶん数年前の夏、見ず知らずの人に作ったものをすごい勢いで否定をされたからだと思う。あのときは本当にしんどかった。

どうやらそれが、この1ヶ月いっぱいいっぱいで自分の好きなものをなにも作らなかったこと、ビジネスに無理やり落とし込もうとしたことで加速してしまったみたい。

時間ができても、落ち着いても、それでもなにか作るのも誰かに見せるのも怖いフェーズから抜け出せなくて、どうしようか悩んでいた。

怖かった。
こわい。
ただただひたすらにこわい。

たった1枚の写真とたった数行のツイートをするのに、わたしが2時間悩んだことはきっと誰も知らない。
なんでもない風を装って、たいしたことないって言われても誰かになにを言われても傷つかないように予防線を張っていたことも、たぶん誰も知らない。

好きですと一言ついたリプライにわたしがどんなに救われたのか、きっと彼女は知らない。

並んだ馴染みあるアイコンはわたしがそこで作ってきた時間とあたたかさで。わたしはいつだってその人たちのあったかい言葉に救われてきたんだなあ。


誰かにジャッジしてもらわなくてもいい

好きな人は好きでいてくれたらいいし、そうでもない人に好きになってもらわなくてもよくて。誰かにジャッジしてもらわなくてもよくて。
ただ作ったものはわたしなので、もし好きになってくれたならそれはそれで嬉しい。

そう、思えるようになりたいです。
そしたら怖さともちゃんと向き合えるような気がするから。


おしまい!


***


アイキャッチ写真:TANAさん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?