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何を言うかより誰が言うか

世の中には様々な事象に対して、それについての意見というものが存在する。
一つの事象に対し、Aという意見が存在するとする。Aを提唱しているのは一人ではなく複数人いるとしよう。同じ意見であるのに、支持を最も集めるのは誰か。
最も知名度が高い人間である。

同じ意見を言っているとしても、最終的に一番意見に力を持たせるのはその「誰が言っているか」である。
「あの有名な○○さんが言っている」。
もっと身近な範囲では「あの信頼している○○さんが言っている」。
同じ意見なのになぜかと、さしも有名ではない人間からすれば憤りを感じるのだが、そうなりがちだということは頭に置いておきたい。

エンタメ分野でも似たようなことが起こる。
「○○(ヒット作)の○○○○が監督する〜〜」というキャッチフレーズの宣伝が溢れている。つまりはそういうことだ。作品の鑑賞を呼び込むためには「誰が作っているか」が大事にされるということである。

同じ内容の作品でも無名の監督であれば、客寄せに非常に苦労するだろう。そのくらい「誰が」は有効なのだ。

「誰が」が大衆に響きやすいのはわかりきっていることなので、自分の意見を、作品を広めるためには、知名度が欲しい。だが当然、簡単に得られるものではない。

知名度が重視される世の中で、注目されることなく埋もれてしまったものがたくさんあるのではないか。なんともったいないことか、と時々切なくなってしまう。機運に恵まれないことは残酷だ。しかし機運に好かれれば…
いや、やはり、機運という自分の力ではどうしようもないところに左右されるところ自体が残酷だ。
「誰が」より「何か」に注目する人々が増えることを祈るばかりである。

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