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歩道橋への憧れと、暮らしたい未来のまち

実は、歩道橋が好きなんです。

もともと歩道橋は、車が増えてきた昭和40年代に児童の安全確保のために作られたらしい。なんとも昭和的で、ノスタルジーを感じる。

そんな歩道橋は今、老朽化による撤去が進んでいる。建て替えではなく、撤去。そう、歩道橋はもうその役目を終えつつあるらしいのだ。

少子高齢化による児童の減少だったり、テクノロジーの発達による信号の制御レベルの向上だったり。それこそ自動運転になれば完全に必要なくなるだろう。社会的にも技術的にも歩道橋は必要とされなくなっている。

また、歩道橋は道路横断のための負担を歩行者に強いてしまう特性から、交通弱者優先の精神に反するとも言われてるらしい。なんとも令和的な話だ、と思う。とにかく成長成長で突き進んだ昭和の時代にはそんな配慮はなかった。

これは社会にとってはとてもいいことだと思う。子どもの頃に校庭にあった遊具が「危険だから」と撤去された。そんな感覚に似ていて少しさみしさはあるけど。

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そんな歩道橋は「まちの景観を崩してしまう」という問題もあるらしい。

この意見を聞いてぼくは少し驚く。歩道橋のある景色が好きだからだ。歩道橋が見える景色も、上から見る景色も好きだったりする。歩道橋ひとつとっても、いろんな感じ方があるんだなと思って、驚きはするけど少しおもしろい。

ぼくの生まれたまちは歩道橋がなかった。田舎すぎて必要なかったんだろう。ここまで書いてきた歩道橋に関する問題や、情緒的なものから置いてけぼりにされてるようで、ちょっと自虐的だけどなぜか誇らしい気持ちになる。

歩道橋のないまちで幼少の頃を過ごした。ではなぜ歩道橋が好きなんだろうか?

その答えは明確な心当たりがある。ズバリ、さくらももこさんの「ちびまる子ちゃん」の影響である。

子供の頃に楽しみに見ていたアニメで今も大好きな作品。ちびまる子ちゃんには歩道橋のシーンがよく出てくる。

通学に歩道橋を使うまる子。

「わざわざ道路を渡るのに階段を登って降りなければならない!そんな面倒なものが世の中にはあるのか!」

驚くというより、興味を感じずにはいられなかった。

子供の頃のぼくは、この「道路を渡るために必要なちょっとした手間」になんだかワクワクした。

そのワクワクの正体はきっと、木のぼりに似た感覚で、少し高いところに自分で登れるという優越感のようなものだったと思う。あの優越感が毎日の通学で手に入るのか、歩道橋すごいな!と憧れを抱いたわけだ。

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聞けば、さくらももこさんはこの歩道橋の上からよく景色を眺めていたそうで、落ち着く場所だったとエッセイなどにも書かれている。これを読んで、ぼくはまた歩道橋が好きになる。

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2018年にそのさくらももこさんがこの世を去り、その喪失感からちびまる子ちゃんの舞台である清水を見に行った。この歩道橋を見たとき、なんだか感動した。他にもたくさんのゆかりの地を見たが、この歩道橋にいちばん感動した。

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これが歩道橋の上から見た景色。このちょっとした高さが簡単に手に入るなんてワクワクする。

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晴れた日には富士山見える…という話は聞いてたけど、運良くこの日は日本晴れで富士山も見れた。

この景色を見て、さくらももこさんの感性は育ったんだなと思うと、歩道橋のもたらした功績は想像以上に素晴らしいもののではないか、と思う。もはや設備ではなく芸術品であると言ってもよい。(と、個人的には思ってる)

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歩道橋とは、交通安全の観点から必要に応じて建てられたもので、それ自体に見る者を楽しませようという目的はない。時代と共に役目を終えれば、撤去されていくのは仕方ないのだろう。

けど、ぼくは歩道橋が好きだ。

いま、住んでいるまちにも歩道橋がある。娘は毎日、歩道橋を使って学校に行っている。歩道橋が日常にある幼少期はどんなものなんだろうな、と思ったりする。欲を言えばさくらももこさんのように何かを感じたりはしないかな。我がまちには、富士山のような日本を象徴する景観はないけれど。そんな期待を少しだけ抱いてる。

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暮らしたい未来のまち。

テクノロジーの進化で安全面や利便性が向上しているまちになるだろう。

その中に歩道橋を遺してくれたらいいな、とちょっとだけ思ってしまう。必要ではないかもしれないけど、歩道橋が好きなんだよなぁ…さて、未来はどうなるだろうか。

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最後に我がまちの歩道橋からの景色をどうぞ。この絶妙な高さがいいんよなぁ。

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