心のノート

昔から、人間関係について考える時間が多かった。

考えざるを得なかった環境であったことは間違いないのだが、今思えば友人や他人、家族について様々な思いを抱いてきてよかったとも思う。

他人思いのいい子

小さい頃よく大人しいとか、大人びてるとかよく言われたが、それはある種の諦めの気持ちを持っていたからだと思う。小学校に入ってから、両親がケンカするをことが多くなり、二年生の時に父の会社が倒産した(ダジャレかw)。そんなこともあってか、常に大人の機嫌を伺い、迷惑をかけないように生きることを幼心のうちに心がけるようになった。幼稚園から続けていたサッカーも辞めたのも、日勤と夜勤をして生活費を稼いでくれる両親に、送り迎えする時間をプレゼントするためだった。まぁ、多分それだけではないのだけれども...

中学生になり、初めて心から夢中になれるものを見つけた。部活で始めた野球である。チームを任される楽しさというものも感じることができたと思うし、チームメイトからも少なからず信頼を集めていたと思う。今でもふと、戻りたいと思うことがあるとするならば、中学生の時だ。

自信とは、自分でなくてはいけないと思える気持ち。自我。個性。プライド。

苦労して入った地元の進学校では、自分の野球ができなかった。チームを構成する一員であることには間違いない。しかしいくらでも代わりがいる。自分でなくても別にいいと感じるようになってから、野球だけでなく日々の生活、恋愛までこなしていくようになってしまった。

だからこそ大学では肉体的な強さを身に着けようと、武道を始めた。それはいい部分と悪い部分があったと思える。確かに技術的に、精神的に強くなることができた。しかし、いかんせん時が経過してしまった。アニメや漫画では強くなってきた主人公は、絶妙なタイミングでの帰還に「救い」として歓迎されるが、実際の人間社会ではなかなかそう都合よくはいかない。

自分の本当の幸せ、エゴ+アイディール

人はそれぞれ違った物差しを持っている故、人生は相対的評価をするのは難しい。持っている人がそうでない人と比較することで幸せを感じる人もいる。それも決して悪いことではない。自分は持っているものもあるが、世間一般から見た現状としては、持っていないほうに分類されるであろう。だからこそ小さいことで幸せを感じることができるようになった、今のこの気持ちを、命が尽きるまで大切にしたい。誰かを思って涙を流したり、くだらないことで笑ったりできるその一瞬一瞬を続けられるように全力を尽くし、願わくば最愛と思える人に、人たちに惜しまれつつ、最期を迎えることができたら、それ以上何も望むことはない。

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