流れがわかる日本史⑤

今日から奈良時代です。皆さんは奈良時代と聞くと、何をイメージしますか?平城京とか、貴族の政治とか、遣唐使とか様々だと思います。全て正解です。当時の日本の人口は600万人程度、奈良の都の人口は10万程度でした。そして、政治を担う、いわゆる貴族と呼ばれる人々は1万人程度と考えられています。つまり、私たちが学校で習う奈良時代の政治は、人口1%未満の人たちの物語ということになります。それはさておき、この時代は、前回も話しましたが官僚制が広がり、実力と経験が重視されて行く時代でした。その中で台頭していったのが藤原氏だったのです。

もともとは中臣氏から始まる藤原氏は、藤原不比等が出て、天皇家と姻戚関係を結び、政界に進出していきます。奈良時代は、藤原氏とその他の皇族、氏族が交互に政権を担う時代でした。簡単に紹介していきましょう。

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まず、藤原不比等。系図にある通り、娘を文武天皇や聖武天皇に嫁がせ、生まれた皇子を天皇にすることで政界で強い権限を手にします。そして、その後を受けたのが不比等の息子たちである、四人の兄弟ですが、彼らはまだ若く、不比等の後、政権を担当したのは長屋王でした。長屋王は天武天皇の孫であり、皇族のホープとして、血筋も経歴もバッチリでした。

しかし、長屋王と藤原4兄弟が対立してしまうのです。きっかけは光明子立后問題でした。藤原4兄弟はさらなる勢力拡大のため、聖武天皇の皇后に、同じく兄弟の光明子を立てたいと考えました。しかし、当時は皇族以外で皇后(第一夫人)になった前例がなく、皇族出身の長屋王は、天皇の第一夫人は皇后でなければならないと光明子の立后計画に反対します。その結果、4兄弟の策謀にあい、失脚するのです。妻も子も処刑されるという凄惨な事件となってしまいました。ちなみに、後の時代に同じ藤原氏によって書かれた国史には、長屋王は無実であったと書かれています。藤原氏にとってもこの事件は悔やまれるものだったのだと思います。

藤原4兄弟は、晴れて光明子を聖武天皇の皇后とし、4兄弟は、それぞれ別家して、南家、北家、式家、京家と別れ、政界に進出して行くのです。これにより、それまでは太政官には一氏族から一名という慣例を打破し、藤原氏が複数名太政官、つまり最高意思決定機関に進出することになります。しかし、何の因果か、彼らは当時、遣唐使がもたらしたとされる疫病にかかり、相次いで亡くなってしまいました。

その後、政権を担当したのは橘諸兄という男でした。系図にあるように、橘氏ですが、光明子とは父違いの兄妹でした。橘諸兄は藤原氏と協調して政治をしていこうとしますが、この時代は、式家藤原氏の藤原広嗣が九州で反乱を起こしたり、疫病がやはり蔓延したり、飢饉が続いたり社会不安が広がる時代でした。だからこそ、成人に達した聖武天皇は、天皇としてこの国を守ろうと考えた時、仏教の力に着目するのです。あの有名な東大寺の大仏様はこの時代に造られました。人々の不安な気持ちを鎮め、世の中を落ち着かせつためでした。

橘諸兄ですが、彼は難しい時代の舵取りを懸命にこなしましたが、突然引退します。それはお酒の失敗と言われています。今も昔もそういうことがあるのですね。彼は、お酒を飲み過ぎ、酩酊し、あろうことか天皇批判をしてしまったそうです。その後、彼は天皇に申しわけが立たないと、潔く引退します。身の引き方は立派だったと思いますが、何とも惜しい気もします。

その後、政権を担当したのが再び藤原氏でした、南家出身で不比等の孫にあたる藤原仲麻呂でした。仲麻呂は、当時聖武天皇亡き後、絶大な力を持ち始めた光明皇后を後ろ盾に、太政官で極めて強い権限を手にします。聖武天皇の娘で当時、孝謙天皇が即位していましたが、病気療養を理由に退位させ、淳仁天皇という天武天皇の孫の一人を即位させ、実質は藤原仲麻呂が権力を握っていました。

しかし、後ろ盾の光明皇后が亡くなると、仲麻呂と淳仁天皇は、皇族や氏族からのコンセンサスや支持を集められなくなり、体調を回復させた孝謙天皇待望論が出ます。そして、孝謙天皇の病気を癒したということで、その側近となっていたのが道教という僧でした。彼は、弓削道鏡といって、もともとは物部氏の出と言われています。物部氏はかつて蘇我氏に敗れた氏族でしたが、軍事士族として名前を変えて弓削氏(ゆげし)として連綿と続いていたのです。

この孝謙上皇、道教陣営と淳仁天皇、仲麻呂陣営が衝突して、なんと仲麻呂側が敗北します。淳仁天皇は淡路へ流罪となっていましました。

そして、奈良時代の後半、誕生するのが道教政権です。人々は驚きます。僧侶出身の者が、太政官のトップに立ち、政治を担うのです。当時、仏教はあくまで政治の道具で国家を鎮護するための政策の一つです。仏教が国家の中心となり、日本を支配するということは政治家たちも考えていませんでした。仏教勢力が増長しすぎたと、捉えられてしまします。だからこそ、この後平安京に移ると、平安京内には原則寺院の建立は禁止となりました。今でこそ、たくさんの寺院が京都にもありますが、あれは、室町時代以降の禅宗寺院が多く、平安時代には平安京には、東寺と西寺の二つしかありませんでした。奈良時代の仏教政治の行き過ぎを反省してのことでした。

さて、道教ですが、あろうことか彼は天皇になろうと画策します。孝謙上皇(重祚して称徳天皇)もそれを支持します。ちなみに、道教は称徳天皇と恋人関係にあったと言われてます。誰がいったのか、道教のマラ(陰茎)が巨大であったという話がありますが、こういった話は嫌悪感を持つ人もいると思いますので多くは語りません。

そうそう、道教は天皇になるため、大分県、宇佐八幡宮で信託が降りたという話を出します。宇佐八幡宮は日本の八幡宮の総本社、由緒正しき神社です。そこの巫女が神の憑依を受け、信託を告げるのです。

「道教を天皇にせよ」

まさか、と思いましたが、称徳天皇は大喜び、友達の和気広虫というおばさんに、大分県まで行って確認してきてと頼みます。しかし、広虫は、長旅は辛いということで、弟の和気清麻呂がいきます。この和気清麻呂は、内心、このまま道教に皇位が渡ったら大変なことになると考えていました。そして九州から戻ってくると、称徳天皇に、「信託は出鱈目でした!道教が天皇になるということは絶対にありえません!」と進言しました。称徳天皇は激怒して、和気兄妹は、それぞれ「きたなまろ」、「せまむし」と改名させられて流罪となってしまっています。ちなみに、和気清麻呂は桓武天皇の時代にカムバックし、大いに活躍しています。

その後、称徳天皇が失意のうちに崩御すると、道教は孤立無援となり栃木県に左遷となりました。そして、称徳天皇の後の皇位継承問題ですが、太政官では話し合った結果、それまでの天武天皇系の天皇から皇統を大きく変えて、天智天皇の孫で当時60歳を超えていた光仁天皇が即位します。桓武天皇のお父さんです。こうして、時代は奈良から平安へと移って行くのです。ちなみに、私の人物史でも「光仁天皇」は紹介しておりますので、そちらもご覧くだいさい。

以上が、奈良時代の大きな流れです。少し長くなってしまって申し訳ございません。今後も、大づかみの日本史を述べられたならなと思います。ちなみに、時代はどこからでもいいかと思いますので、リクエストがありましたら、その時代を大いに語っていきたいと思います!よろしくお願いします。



歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。