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人はなぜ「美しい」がわかるのか【サブ記事】

*本記事はイスツクエ氏が選んだ本・記事をもとに記されています。*
橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』|イスツクエ (note.com)



美しいとは、人々が個別的に「美しい」と感じるその共通項であると思っている。

「美しいとは何か」系の話は、色々考えていけるがあんまり抽象的な話に持ってこようとすると、寧ろ本質を掴み損ねる気がする。
そんなものは人によって当然バラつきがあるからだ。
本書にあるように「合理的」なものに「美しい」と感じる場合もあるだろうし、逆に非合理的なものほど美しさを感じる者もいるかもしれない。
だから、この手の話はあんまり触れてこなかったし、このnote記事も結局は僕の「美しい」でしかなく、人々一般の美しいに関してまでさして踏み込まない。

1 「美しい」体験


最も印象に残っているのは、北海道の山奥で見た星空である。
高校時代の修学旅行で、私は北海道の山奥に泊まった。夜中、外に出て、光の気配さえない山の中で、ふと見上げるとそこには眩い星達が点在していた。とても「美しい」光景だった。
皆も多分、見惚れていた。
他には、花火の美しさも大好きである。爆音と夜空に浮かぶ光景は目を見張る美しさがある。
あればっかりはいつまで見ていても飽きない。
人は星空であったり花火であったりと、漆黒の世界で光り輝くものには誰しもつい美しさを感じるのかもしれない。
少なくとも、美しいという言葉で感じるのは、そのレベルの共通項くらいだ。

2 価値と価格

現代において、「美しい」や価値の議論をややこしくしている原因に「価格」の存在があると思う。
今は「価格」こそが「価値」を侵食してしまっている。
「価値観」ではなく、「価格感」こそ実態に即している。
この話で僕が思い出すのは、ニュースで見た女性VRアーティストのコメントである。
彼女はVRで立体的な映像作品を製作していたが、なかなか評価されず苦労していた。しかし、ある時からNFTなどによってバーチャルでのアートが注目される様になると、彼女の作品は100万円もの値がついた。
その時に彼女は、
「私の作品の価値が認められて嬉しい」
と言った。
彼女の作品についたのは正確には「価格」である。この世界においては、「価値あるものに価格がつく」という前提があるため、価格がついたことによって価値も一緒に認められたという認識だったのだろう。
しかし、これは必ずしも成り立たない。バイヤーは「美しい」などといった価値など感じてなく、単なる投機目的で買っただけもしれないではないか。
(この場合、ある意味彼らにとっては投機のための「価値」があったわけだが、少なくとも本記事の文脈では「美しさ」、「素晴らしさ」程度に考えて欲しい。)
逆に、僕は彼女の作品を「面白いし、美しい」とはっきり思った。つまり「価値」を感じた。お金こそ払っていないが、そこにアートとして純粋な好感があった。
そのことを彼女にもし直接伝えられたならば、きっと喜んでくれただろし、本当の意味で
「私の作品の価値が認められて嬉しい」と言っただろう。
この「価値」と「価格」の奇妙な並列は、資本主義によるものだろうが、染みつき過ぎていて、大抵の「美しいとは」「芸術とは」系の話で顔を出してくる。

3 モナリザ

モナリザには一生遊んで暮らせる金額がその絵画にはついているが、それだけの美しさが内在しているかどうかはやはり完全に人それぞれである。1円もしない公園の草木を眺めている方がよっぽど「美しさ」や安らぎを得られる人もいるだろう。
「数百億円です」という前情報を聞いて一気に「価値」を感じてくる人もいるかもしれない。
なお、僕は実際に本物を見たことがあるが、歴史的な重みやオーラこそ感じられても、それ以外のことは良く分からなかった。そして意外に小さかった。
要は「美しい」に関する議論は、そのものに内在している価値とそれを読みとる各個人のセンサーによる問題ではないのか。それが「言葉」や「価格」の問題でややこしい様に見えてくる。僕はそう感じている。

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