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夕暮れの庭で

昨日今日と天気がとても良く、昼間は暑いほどだった。けれども夕方17:00を過ぎれば、太陽は山の方へと退き、涼やかな夕風が吹き始める。その時間を見計らって、庭のベンチに腰を下ろし、1時間ほどぼーっと風に当たった。

沈みゆく太陽の光が目の端にキラキラと揺れる。風に吹かれる庭木の緑、細波をつくるデルフィニウムの青、木陰の地にはドクダミの清潔な白い色がポツポツと浮かび上がる。そして遠く庭の向こうには、麦畑の黄金の輝き。東から吹くやさしい風に当たりながら、それらを順々に眺める。空にはスズメやツバメやハト、オナガなどの鳥が気ままに飛び交っていた。

私はこの風さえあれば他はいらない、と思う。この風と、緑の庭。自然の美しさの中にこうして立っていられる時間があれば、それでいい。
馬鹿げた考えだろうか。それでもしばしば私は本気でそう思う。光と風と緑があればそれでいい。

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小学2年のとき、生活科の授業の時間に、私たちの担任の先生はよく散歩に連れ出してくれた。緑豊かな田舎の小学校であったから、広い校庭があり、その外側にはさらに広大な田んぼが広がっていた。そんな環境の中で私たちは、木登りをしたり、カナヘビやザリガニやカブトエビなどの生き物を捕まえたり、ツクシやヨモギやノビルを採って食べたり、時には水田の泥に足を捕られて一生ここから抜けられないのではないかといった(今思えば微笑ましい?)恐怖を感じたりしながら、泥だらけになって全力で遊んだ。
今となっては記憶は曖昧だが、こうした散歩は週に2〜3回はあったのではないかと思う。先生は、自然の中で遊ぶことの教育的効果を分かって、こんなにも頻繁に私たちを外へ連れ出してくれたのだろうか……。とにかく、私たちを自然の中で目一杯遊ばせてくれ、そのことが私たちにとって大きな学びとなっていたのだ。振り返って、少なくとも私はそう思う。
そんな先生が学級通信および学級文集のタイトルに付けていたのが、『風と光と太陽』という言葉だった。当時から20年経った今、気がつくと私はしばしばこの言葉を反芻している。

風と光と太陽ーー。

自然の中で夢中になって遊んでいると、ふとザァーっと風が全身を撫でてゆく。風だ、と思って顔を上げると、強い光が顔面に降り注ぐ。反射的に閉じた目をゆっくり開けていくと、その先には太陽が照っている。風と、光と、太陽。
当時は何とも思わなかった言葉が、今、示唆を含んで迫ってくる。あの時、先生が教えてくれたこと。生きることの原点のようなものーー。

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日はもうすっかり西の山の向こうに隠れてしまった。夕闇を渡る風の温度も少し下がってひんやりと感じられる。
実家にいるから、昔のことを思い出したりしたのだろうか。この環境が、当時のことを思い起こさせるから……。

子どもの頃は、ココだけが世界だと思っていた。自然豊かな地域、学校、友達、家族。この他にも様々な世界があるなんてこと、考えもしなかった。
それが10代、20代、高校、大学、社会に出て、知らなくていいことまで知ってしまったような、そんな気がする。理不尽なことや意味のわからないこと、本質ではないと思えるようなこと、色々なものが渦巻いている世界に触れて、私はまた、小学2年の頃の、7才の頃の無邪気な世界に帰りたいと思っているのかもしれない。何の不安も心配もない、植物や動物の生きる緑の世界の中へ。

現在26歳。同世代の友人たちは、都会に出てバリバリ働いている者、世界を飛び回っている者、結婚して子の親となった者もいる。そんな中で、自分だけが子どもじみた夢見心地の空想を抱いてぼんやりとしているのではないかと、罪悪感や劣等感に似たものが襲ってくることもある。
ただ、どうしても『風と光と太陽』の精神は忘れられない。捨て去れない。百人百様の人生と思えば、自然の中でゆったり生きることを追求することも許されるだろうか。
いずれ結婚し母となれば、そんなのんびりとしたことも言っていられないだろうが、だからこそ、今だけは自分の人生を自分のために好きなように生きたいと思ってしまう。これは、ワガママか、あるいは将来への備えもしないで馬鹿なモラトリアム的態度だろうか。
20代半ば〜後半というのは、想像以上に悩みが尽きない。波も多い。仕事、結婚、妊娠、出産……。私の人生はどこにある?

私は、心地良い風と光と緑があればそれでいいのに。

▲17:30頃の西の空。

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