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言葉と思考の関係のこと(その2) エンターテイメントの中のサピア=ウォーフ仮説


サピアとウォーフがネイティブ・アメリカンの言語を研究していた20世紀前半は、前述のとおり、白人優位の世界観が欧米では世間の常識だった。わたしはこの2人の仕事を詳しく読んだり研究したりしたわけでもなんでもないので単なる推測だけど、おそらく2人はそのような既存の社会体制に対する批判者であることを自負していたのではないかと思う。

なにしろ、列強が植民地をなんとかして押さえつけようと四苦八苦していたところに、日独伊が帝国への道を爆進していく時代である。

そのさなかに、人の思想や行動はその人の文化、さらには言語のシステムによって変わるという考え方を提示するのはセンセーショナルだったに違いない。

ウォーフはアマチュア学者であって実際にフィールドワークをしたことはなかったそうだから、手に入る資料の中でちょっと想像の翼を広げすぎたきらいはあるかもしれない。特に、一般に「未開人」とみなされていたインディアンの文化のなかに西洋文明社会にはない叡智と答えを求め、ロマンチックな夢を描いていた感じはする。

サピア=ウォーフの仮説を取り入れた小説や映画もたくさんある。

つい最近では、テッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』を原作とする映画『メッセージ』(原題は『Arrival』、2016年公開)があった。

時間を直線ではなく円環として体験している宇宙人と対話をつづけるうちに、自分もその円環的な時の中で現在と過去と未来を同時に生きるようになる言語学者の物語。つまり、その宇宙人たちの言語を学ぶことによって、時間を経験する方法が変わってしまうという設定だ。

原作はそれがものすごく切ないストーリーのなかでだんだんと明かされていく、とても静かな内省的な物語だけど、映画ではもっとシンプルに地球と人類を救う話に変わっていた。(でもドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が宇宙人の言語を目の飛び出るほど美しく映像化しているので、わたしはこの映画はとても好きです)。

伊藤計劃の小説『虐殺器官』(2007年)もまさに、サピア=ウォーフの仮説を下敷きにしたもの。

これは、とある「文法」をある一定の社会の中に仕込むことによって、その言語を使う社会の人たちが残虐な虐殺をはじめてしまうという話(ものすごく雑なネタバレすみません)。まるでハーメルンの笛吹き男の笛の音に引き寄せられて行くこどもたちのように、人びとが虐殺文法の不思議なパワーに抗えず、自分でも説明のつかないまでに行動パターンを変えて互いを殺しまくるという話で、サピア=ウォーフの「強い」仮説よりもまださらに強大な力を「虐殺文法」に与えている。

(サピア=ウォーフの仮説には「強い」仮説と「弱い」仮説があるとされている。すごく簡単にいうと、「強い」仮説は<言語は思考を規定する>という立場で、「弱い」仮説は<言語は思考に影響を与える>という立場)。

エンターテイメントの世界にもこれだけ頻繁に出てくるという事実からも、世間では「言葉は、それを使う人の思考に強く影響する」というこの仮説が根強く支持されていることがわかる。

(つづく)

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