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言葉と思考の関係のこと(その5) 言語化という作業

ピンカー先生は
「人は、英語や中国語やアパッチ語で考えているのではなく、思考の言語で考えている。……概念に対応するシンボルがあり、誰が誰になにをしたかに対応するシンボル配列があると想像される」
(『言語を生み出す本能』NHK出版、椋田直子訳 上巻 109ページ)

…と言っているが、これはちょっと単純すぎるモデルじゃないかと思う。これではまるで、思考の言語とふつうの言語が一対一対応をしているかのようだ。

翻訳者なら誰でも知ってることだけど、ふつうの言語間の翻訳でさえ、単語の一対一対応でことが済むことはない

心的言語による思考(とピンカー先生が呼ぶもの)は、もっとモヤモヤした形のさだまらないものだと思う。一対一で現象に対応するようなものではなくて、もっとぼわーんとした意味のカタマリに、感覚と情緒もからまっているもの。それを意識のミルフィーユの下のほうからよっこらしょと引き上げて、光に当て、よく見て、いらないものをふるい落とし、言葉を当てはめていく。

言葉を見つけ思考を掘り出すこの作業は、「名づけ」という作業に近いと思う。
ぼんやりとしたものに言葉という形を与えて確認する作業。
言語化するというのはそういうことだ。そこにはかなりの精神的なエネルギーが必要だ。

言葉はまず、自分の脳内のコミュニケーションツールでもあるのだ。

誰でも、人に話したり文章にしたりしてはじめて、自分はこんなことを考えていたんだ、と気づいた経験があるのではないかと思う。

人に話したり文章を書いたりすることは、自分の思考をいったん外に出し、棚卸しをして調べてみるプロセスでもある。

とくに時間をかけて文章化していくと、思考は頭の中にあったときとは違った立体的な輪郭を取りはじめる。そこではじめて、アイデアが世間に流通可能なものになる。

それはたぶん、アイデアのスケッチから絵画や彫刻や建築の設計図を書き起こしていくのとよく似た創造的なプロセスといえるのだと思う。

(冒頭のビジュアルの書は、東村禄子氏の作品です)



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