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言葉と思考の関係のこと(その3) そもそも思考はミルフィーユ

サピア=ウォーフの仮説への反論への反論

さてそれではピンカー先生への反論です。

ピンカーは、人には非言語的思考をしている、ということを証明する一連の研究結果を、この言語決定論仮説の反証として挙げている。

●言語を持たない人も複雑な思考をしていることが証明されている
● 赤ん坊も言葉を覚えるはるかに前から数の概念を持っている(急に視界の中にものが増えるとびっくりする)
●言葉をもたない猿たちも、個体間の血縁関係を記憶している
●アインシュタイン、ファラデー、コールリッジなど、言語によらずイメージで新しい概念を獲得した人の逸話は数多い。物理学者は言語ではなく図形で考えるという。言語が思考を規定するとしたらこれは説明がつかない。

まことに僭越ではあるが、わたしはこれらの点が言語の相対性を否定する根拠とはどうしても思えない。少なくともサピア=ウォーフの「弱い」仮説の反証とはならないんではないか。

たしかに言葉が「虐殺文法」みたいな不可思議なパワーで脳を書き換え、行動を直接的に変えるというのはちょっと荒唐無稽すぎる話ではある。

しかし、そもそも「思考」と言語とはどのような関係にあるのか。

人間の思考について、ピンカー先生はアラン・チューリングの「物的シンボル体系の仮説」「演算理論」「表示理論」を引いて説明する。

つまり、脳は有限個の行動セットを実行するプロセッサであり、そのプロセッサが行う演算が「思考」であると。

それはわかった。でも、どうもピンカー先生は、「思考」=演算を、単純にひとつのレベルのものとして扱っているように読めてならない。

だいたい、思考とか意識とかいうのは、非常に大雑把な言葉なのである。

思考は非常に複雑なアルゴリズムであって、ミルフィーユのようにたくさんの層を持っているはずである。

チューリングもピンカー先生も、なぜだかこの点をするっと無視しているようにみえるのはどうしてなんだろう。

自分の脳がどんな活動をしているか落ち着いてよく見てみれば、その中にはいくつもの層があるではありませんか。

ホルモン分泌や体温調整といったような、普通は自分でも意識できないしコントロールもできない分野の脳活動を一番下の層、会社の業績を分析するとか軌道の計算をするとか憲法の解釈について議論するとかいった抽象的な思考を一番上の層としたら、言語活動はそのまんなかの上らへんあたりから始まるのではないかと思う。

(実際には単純に上下で分けられるものでもないと思うけど、ここでは便宜上、よりはっきり意識にのぼる脳活動を上のほうにある層の活動として考えてみる)。

思考のアルゴリズムの大部分は、脳の持ち主であるわたしたちの意識にのぼらない「自動運転」式のものが多い。

朝起きて歯を磨き、会社に行くあいだに脳内で起きていること、すべての意思決定、すべての思考をもしリストにしたら、とてつもなく長い表になるだろう。

歯磨きをどのようにどのくらい絞り出すかとかパンツをどのように履くかといった選択は、もう何千回もやってきているのであらためて考えるまでもなく自動運転=習慣になっている。そのうちのほとんどは言語化されないし、そのような活動が脳内で起きていることに自分で気づいてもいないことのほうが多い。「無意識」と言い替えてもさしつかえないと思うが、言語の域にのぼってきていないだけでこれも立派な脳の演算活動である。これはたぶんミルフィーユの真ん中よりもちょっと下くらいにある脳活動なのではないかと私は勝手に思っている。

歯磨きや着替えにとどまらず、思考のあらゆるレベル、ミルフィーユのてっぺんの抽象思考に至るまでが、ある程度習慣に動かされているはずである。

朝起きてから寝るまでの無数の行動と決定をいちいち言語化していたのでは意識のリソースの使い方が無駄すぎる。いったん覚えたことは自動運転、つまり習慣にすることで、新しいことを学ぶことや新しい意思決定に意識を向けられる。

「なにをどう考えるか」「なにが重要か、どちらが優れているか」「どうふるまうべきか」という価値観や信念も、そうした考え方の習慣の集大成だ。
ボアズのいう文化相対主義というのはつまりそういうことだと思う。私たちは文化の制約、つまり習慣の範囲内で暮らし、考えている。

(でもこれは宿命ではない。ピンカー先生のいうように心的言語の装置が生得のものならば、その習慣をある程度まで「おや、こんなものが制約になってるよ」と発見していくことも可能なはずなのである。)

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思考は情動と深く結びついている。

失恋したあとにどうしても相手のことがあきらめきれないでどうしようどうしようこのままでは死んでしまうと悩むのも「思考」の一種ではあるが、その思考はほぼ完全に情動に支配されている。というか、思考を、言葉によって情念を発動する装置にしてしまっている。私自身も覚えが大ありなのだが、世の中にはけっこうそういうふうに無限ループで悩んでいる人が多い。

実は私たちが自律的な思考だと思っているほとんどは、情動や習慣やその他の条件やかなり固まったストーリーや幻想に左右されているのだと思う。些末なものから壮大なものまで。

ユヴァル・ノア・ハラリは『ホモ・デウス』のなかで「大勢の人の間のコミュニケーションに依存した共同主観」が、人間にとって第三の現実を形作っていると述べている。神、貨幣経済、国家などは、言語によって現実化されているというわけだ。

行動経済学者のダン・アリエリーは、人は自律的に意思決定しているつもりでも、実際は面倒な判断を避けているだけのことが多い、という実験結果を紹介している。>動画はこちらから

どうやら「思考」というのは、実はみんなが思ってるほどしっかりしたものではない場合が多いらしい。

「自分」というのは実は私たちが漠然と思ってるほど確固としたものではなさそうだ、ということもできると思う。

そして、言語はそれを左右する重要な因子のひとつだ。

ピンカー先生もそうだけど、インテリの人ほど、思考や意識の確実性を過大評価しがちなのではないかと思う。

(つづく)


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