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神なき国の聖人たち:HBO『チェルノブイリ』とカミュの『ペスト』


2019年制作のHBOミニシリーズ(全5回)『チェルノブイリ』を見た。


日本ではスター・チャンネルで昨年公開され、現在はAmazonのプライムビデオでストリーミング公開中。

すごいドラマだった。
2019年のエミー賞のリミテッド・シリーズ部門で作品賞、監督賞、脚本賞、主演男優・助演男優・助演女優賞を獲得しているのも当然だ。

ドキュメンタリーではなくて、事実にもとづいてはいるけれども、脚色されたドラマ。

その脚色のしかたが素晴らしかった。

原発事故の話ではあるけれど、それ以上に人間のドラマとして、倒れそうなほど感動してしまった。

とくに、出口のないコロナ禍と空前絶後の奇妙な大統領が毎日ウソを撒き散らして繰り広げるめちゃくちゃな政治劇場と、不安定な経済と荒んだフェイクニュースと荒んだ対立がえんえんと続いているこの今だからこそ、ものすごく心に響いたのだと思う。

自分の属している組織がまともに機能していなくて、状況が最悪で人がどんどん死に、希望などひとつも持てないときに、人は何をするか。という話なのだ。

この状況、今の世界に(とくに今のアメリカや日本に)そっくりではないか。

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脚本も素晴らしいし、ビジュアルもすごい。CGを駆使しているそうだけど、細部にいたるまで1986年のソ連を再現していて説得力がある(出てくる灰皿や電話など、垢抜けない共産圏らしい小物がなにげにかわいい)し、崩壊した原子力発電所の、地獄の窯が口をあけたような映像もすごい。そして、沈んだトーンで淡々と人びとの表情を静かにとらえるカメラワークにも、いちいち心打たれる。

チェルノブイリの事故があったのは1986年、日本がバブルに向かって邁進していたときだ。

(以下、ネタバレ全開です。歴史的事実にもとづいたドラマとはいえ、ネタバレが嫌いな方はぜひぜひ、ドラマを先にご覧くださいませ)

大惨事の始末を引き受ける人たちを描くドラマ

壊滅的な事故は、現場管理職が自分の評価を高めるために無謀な試験を強行させたことによって生じたが、原子炉の緊急停止システムにも致命的な欠陥があった。

条件が揃えば、よりにもよって緊急停止ボタンが大爆発を引き起こす可能性があるという恐ろしい欠陥。この欠陥が科学者により指摘されていたのに、自己保身を優先させた官僚たちが隠蔽していたため、現場に知らされていなかった。

事故当日、原子炉の操作を担当していた若い技術者たちはもちろん何も知らずに緊急停止ボタンを押し、歴史的な大惨事の引き金をひいた。

ドラマではそのいきさつが、緊迫した事故の経過を追いながら少しずつ明らかにされる。

ドラマは、さまざまな立場でこの大惨事に巻き込まれた人びとを、控えめに丁寧に寄り添って描く。

何が起きたのか理解できず呆然としながらも、崩壊した炉心付近で事態を少しでも収拾しようとするエンジニアたち。防護服もなしに発電所の中心近くで消火活動にあたり、たちまち急性放射線障害でバタバタと倒れていく若い消防士たち。その消防士の妊娠中の妻。近隣の町で、危険であることすら知らされず、死の灰を浴びながら火事を見物する人びと。

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ストーリーはやがて、核物理学者のレガソフ教授とエネルギー政策の最高責任者シチェルビナという二人の主要キャラクターに集中していく。

 この二人は(どちらも実在の人物)、事故直後にゴルバチョフの特命を受けて現場を見に行き、そのまま事態収束の指揮をとることになる。

専門家のレガソフは事故報告書のちょっとした記述から事故の重大さを察知する。現場の管理職たちは上層部に「たいした事故じゃない」と信じさせようとし、事なかれ主義の官僚たちもその報告に満足していた。

だがレガソフは、炉心にしかないはずの物質が地面に落ちているということは、炉心が露出しており、とほうもない量の放射線が毎秒放出され続けているはずで、このままだと何百万人もが死に、広大な国土が死の土地になる、と指摘して、委員会とゴルバチョフを凍りつかせる。

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当初は「レントゲン検査で浴びる程度の放射線量しか漏れていない」という報告を信じていた官僚、シチェルビナは、現場で事態の深刻さに徐々に直面していく。この描写がすごい。

最初はいかにもソ連の官僚らしい尊大で事なかれ主義の態度だったシチェルビナの顔が、現場の惨状を前にだんだんとこわばっていき、やがて、「ここにいる以上、5年以内に自分たちも死ぬんだ」というレガソフの言葉に決定的な衝撃を受ける。

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シチェルビナがレガソフに、放射能を浴びた被害者に何が起こるのかを尋ねる場面がある。

現場で大量の放射能を浴びた作業員たちは、数日内に全身の細胞が溶けてモルヒネも効かない苦しみの中で死んでいくこと、そして現場に長くいる自分たちにも遺伝子に異常が生じて、おそらく数年以内に癌などを発症して死ぬだろうということを、レガソフは淡々と教える。

そんな立場を共有する二人の間には真の「同志」としての信頼が生まれ、それ以降二人は、むき出しで放射能を出し続けている炉心を封じ込めるために、可能な限りの力を尽くしていく。

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ここで三人めの主要人物が登場する。チェルノブイリから400キロ離れたミンスクで空気中の放射線物質を検知し、重大事故があったことを知る核物理学者のウラナ。

彼女は、消火のために空中からホウ素と砂を投下するというレガソフたちの努力が、地下の冷却水だまりによってさらなる大惨事につながることに気づき、単身チェルノブイリに乗り込む。

このウラナは架空のキャラクターだ。実際には何十人もの科学者たちがレガソフたちを支援したが、ドラマの制作者たちは、その科学者たちを一人の思慮深い女性科学者ウラナという人物像に託して描いたのだという。

レガソフたちは最小限の人的被害で事態を収束しようとするが、最終的にはあからさまに死を意味する危険の中に作業員を送り込まなければならない。そのことに誰もが苦悩する。

炉心の真下にトンネルを掘るために動員された炭鉱夫たちや、汚染された水の中に入って排水バルブを開けにいく作業員たちは、ただ命令にしたがうしかなかった被害者としてではなく、矜持をもって仕事をまっとうする人間として、淡々と、崇高に描かれている。

命を危険にさらす排水作業の志願者3名をつのるシチェルビナは、作業員から、わずかな報酬のためになぜ命を危険にさらさなければならないのかと問われ、「できる人間がほかにいないからだ」と答える。

「こんな事態を作り出した人間は唾棄すべきだ。わたしもつばを吐きたい。だが、とにかく今は、君たち以外にこの作業ができる人間はいない。やらなければ数百万の人間が死ぬ。われわれの歴史は犠牲の上に成り立っているんだ」

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大義のために自らを危険にさらす人びとを称賛することには危険がつきものだ。

特攻隊や人間魚雷のように無駄に命を捨てさせられた人びとを英雄としてたたえ、その物語に陶酔してしまうと、その英雄的行為も動機も含めたすべてが、無能な指導者たちにとって都合のよい攻撃的な神話の材料にされてしまう。

このドラマのすごいところは、そういった市井の人々の英雄的な行いを、ほとんどドラマチックな高揚なしに淡々と描いていることだ。

『アルマゲドン』のブルース・ウィリス父ちゃんみたいにエアロスミスの音楽に送られて派手な花火となって散るわけではなく、炭鉱夫たちも作業員たちも、じわじわと身体をむしばむ放射能のなかで淡々と仕事をこなしていく。

作業員たちばかりでなく、危険な作業を指示しなければならないレガソフとシチェルビナ自身も、放射能にむしばまれ、数年後に命を取られることを受け入れたうえで、現場で指揮をとりつづける。

でも、ここに描かれている人びとは、その立場に高揚も陶酔もせず、ドラマチックに悲嘆にくれることもなく、大惨事の収拾をつける仕事にひたすら冷静に集中する。

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真実を語る責任

炉心の火災が収束に向かう中、レガソフはウラナに事故の原因究明調査を依頼する。ウラナは現場にいた技術者たちから事故当日の詳細を聞き出すためにモスクワの病院に向かう。身体中の細胞が溶けかかっている瀕死の技術者たちから話をきいたウラナは、緊急停止システムに欠陥があったことを突き止める。

同型の原子炉を知り尽くしているレガソフはそのことを知っていた。ソ連にはこの欠陥をかかえた原子炉がほかにも稼働中であるため、ウラナはレガソフに、世界に向けて真実を公表するように説得する。

レガソフは、ウイーンで開催された西側諸国向けの公聴会で事故原因を説明する立場にあった。

レガソフは、ウイーンでは国家が用意したとおりの筋書きを語る。現場の責任者の怠慢と無謀な指示だけが原因であったという説明を終えたレガソフは、西側諸国から誠実な科学者だと賞賛を受け、帰国後に国家から最高の栄誉を与えられる。

最終話で圧倒されるのは、現場責任者の罪を問う裁判の場面だ。科学者たちが傍聴するなか、事故の経緯を説明し終わったレガソフは、最後に、それまで隠蔽されていた原子炉の欠陥を暴露する。

予定外の発言に驚いた裁判官が
「ソビエト国家に責任があると示唆するなら、あなたは危険な場所に足を踏み入れることになりますよ」
と警告するの対してレガソフは
「われわれはすでに、危険な場所にいるんです!秘密とウソのためにね。…真実が気に入らないとき、われわれはウソをウソで固めて、目をそらしてきた。そのウソの一つ一つに代償がある。遅かれ早かれ、われわれはその負債を支払わなくてはならなくなるんですよ」
と語る。

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システムの欠陥とそれが隠蔽されていた事実を指摘したレガソフは公職を解かれ、KGBの監視下におかれて、事故からきっかり2年後に自殺する(ドラマの第1話冒頭は、レガソフが自殺するところから始まる)。

レガソフの死後、彼が残した真実を語る録音テープがソ連の科学者たちの中に広まり、それが欠陥のある緊急停止システムの改善につながったことを、視聴者はドラマの最後のクレジットで知る。

カミュが夢見た「聖人」たち

絶望的にひどい話ではあるけれど、ドラマを見終わったあとに感じるのはほのかな希望だ。

ここに描かれているレガソフやシチェルビナ、ウラナ、炭鉱夫たち、作業員たちは、人のエゴイズムと嘘が引き起こした最悪の災害とおそろしく堕落した組織の中で、同胞と人類にたいする自分の責任(「君たちにしか出来ないこと」)を落ち着いて引き受けていく、英雄的で報われない人びとだ。

もちろん、ここに描かれた実在の人物たちもきっと実際にはもっと複雑な背景を持つ複雑な人物なのだろう。

でも、このドラマが語りかけるのは、そういう人間のありかたは可能なのだ、ということだ。

ソ連という国家の内部がおおむねひどい組織であったことは周知の事実だけれど、そのなかでも自分の利益のために真実を曲げることをせず、自分の死という最大の不利益を負ってでも他者のために働こうという意思を持った人たちが確かにいたらしい、という希望。

そして、どの国のどの時代にもかならず一定数そういう人間がいるし、そういう人間であること、あろうとすることは、おそらく条件がととのえば誰にでも可能なのだ、という確信をいだかせてくれる。

カミュの『ペスト』の主人公、リウー医師とタルーも、そういう人たちの一人だ。

小説の終盤ちかく、タルーとリウーが長い会話をするくだりが、この小説の中で私が一番好きな部分だ。

タルーはリウーにこう語る。

「ただ、僕が言っているのは、この地上には天災と犠牲者というものがあるということ、そうして、できうるかぎり天災に与することを拒否しなければならないということだ。これは君にはあるいは少々単純な考えのように思われるかもしれないが、果たして単純な考えかどうか、とにかく僕は、これが真実であることを知っている」
カミュ『ペスト』宮崎嶺雄 訳(新潮文庫 Kindle版)
(Kindle の位置No.4540-4541)

「天災にくみすること」というのはつまり、ほかの人びとの苦しみに目をつぶること、他者のために自分ができる仕事をせずに、天災に背をむけて、それをひどくしてしまうことなのだろう。

『ペスト』は20世紀前半、第二次大戦直後に発表された小説だ。カミュは北アフリカのフランス領出身で、戦時中はナチスに対するレジスタンス活動をしていたという。

『ペスト』に描かれている「天災」である疫病は、戦争という残虐行為のメタファーでもあるのだと思う。だからタルーは人を裁いて死と暴力を与える存在にならないという決意を語り、その天災を動かす「殺人者」となることを拒否する。

同じ場面でタルーが語る言葉
「人は神によらずして聖者になり得るか―これが、今日僕の知っている唯一の具体的な問題だ」
にも、わたしは深い印象を受けた。

「神によらずして聖者になりうるか」というのは、20世紀前半のヨーロッパではまだ切実な問いであったのだと思う。

東西ローマ帝国以来、下層民から王侯貴族まで、人びとの生活と思想の枠組みをがっちり提供してきたキリスト教会の影響力が、王政とともに、そして19世紀の帝国主義とともに、だんだんと有効性を失ってきていた時代。

19世紀末、ダーウィンやフロイトの登場によって、神はもう死んだと思う人がますます増え、それまでの教会の教えはもう時代精神にそぐわなくなってきていて、良心を持つ人は教会の教えに代わる魂のよりどころを探していたのだと思う。

(米国は事情が違い、新天地でキリスト教が新しい活力を得て、建国当初から国の中心と国民の思想と感情生活にしっかりと根を張った。21世紀はじめの現在も、米国ではキリスト教会の信仰を熱烈にまもっている人びとの政治勢力が大きくて、戦闘的な無神論者やほぼ無神論にかたむいている人びととの間で魂の戦いを繰り広げている)

『ペスト』でカミュは神父を死なせている。小さな子どもの苦しい死を見守った神父は、「すべてを信じるか、すべてを否定するかです」といい、神への愛を理解するのは困難だけれども、信仰を全うしなければならない、と説教壇で説き、そのあと、まるで自らペストを召喚したかのような「疑わしき症例」により、十字架を握りしめて死ぬ。沈黙する神の前で迷いながらも、ぎりぎりの信仰を守って、いわば殉死するのだ。

リウー医師は神父の信仰に敬意を抱きながらも(彼は他人の信仰を軽蔑するような人間ではない)、「子どもたちが責めさいなまれるようにつくられたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯じ得ません」と語る。

大戦争と科学のもたらす暴力的な変化に直面した人々の多くにとっては、もはや教会が提供できる信仰のあり方が適切さを失ってしまい、その空虚をどのように埋めるか悩む人が多かったのだと思う。

そのような世界で、タルーは、「聖者」となることを目指すという。

神という存在によらないなら、何によって「聖者」になるというのか。
おそらく、そこでは共感が大きな役割を果たすのだろう。

タルーはこうも言っている。

リウーは少し身を起こし、そして心の平和に到達するためにとるべき道について、タルーにはなにかはっきりした考えがあるか、と尋ねた。
「あるね。共感ということだ」。
カミュ『ペスト』宮崎嶺雄 訳(新潮文庫 Kindle版)
(Kindle の位置No.4557)

タルーのいう「聖者」というのは、おそらく宗教が人間に提供できる最善のあり方のことなのだ。そのあり方を、(19世紀末にいったん死んでしまい、いったん権威をなくした)神によらず、理性と共感によって実現することが、カミュにとっての課題だった。カミュはタルーにそれを語らせている。

『チェルノブイリ』に描かれている人びとの献身は、タルーのいう「聖者」に似ている。

ソ連は(おもてむき)神を完全に否定した国だった。その国の科学者であるレガソフやウラナは、科学が提供する真実をもって、同胞と人類に貢献した。

科学というのは、人間の集合的な知力への信頼の上に成り立ち、ごまかしのないよう、事実を常に確認しあう人類共通のコミュニティだ。科学における真実は、数多くのデータと見解を緻密に突き合わせて細部を確かめコンセンサスをとることであって、多数決ではないし政治の出番はない(はず)だ。

そこには明確なルールがある。ほんものの聖職者がなにより神の存在に命をかけて最大の敬意を払い、聖書の言葉に重きを置くのと同様、ほんものの科学者は共有可能で再現可能な事実の証明に命をかけて最大の敬意を払い、共通の理解と手続きに重きを置くのではないだろうか。

政治家や権力を持った人たちがものごとを自分の都合のよいように解釈し、ウソをひろめ、真実を隠すとき、そしてそれが多くの人びとの命にかかわるようなとき、立ち上がって同胞のために真実を述べる胆力を持った科学者は、まさに「聖人」のような存在ではないかと思う。

そして、災厄に直面したときに「自分にしかできないこと」を、同胞のために黙々と、エゴを横におき、報奨や賞賛も期待せずにおこなう人たちも、タルーのいう「聖人」なのかもしれない。

そんな聖者たちが、世の中には意外にたくさんいるのかもしれない。


少なくともサンタクロースよりは確実に存在するらしいし、どうしようもない人でも、あるとき何かのきっかけで、そんな存在になってしまうことがあるのかもしれない。人間は実は、そういうふうにできているのかもしれない。



ケチな人間が招いた人災である「災厄」を描いたこのドラマは、そんなことを考えさせてくれた。


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