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言葉と思考の関係のこと(その6) 言葉が思考に影響するプロセス


人の思考と意思決定は、わりと簡単に情動や習慣やその他の因子に左右されるのだと思う。

言語もその因子のひとつだとわたしは思う。

しかもかなり大きい因子だと思う。

母語はもちろん、感覚器官のはたらき方を変えたりはしない。伊藤計劃の「虐殺器官」に描かれているみたいな操作をするのは生物学上きっと無理に違いない。

でも感覚器官からインプットされる情報やその情報を処理するシステムは同じでも、その脳のもちぬしが学習していく言語と、その言葉がひきおこす情動によって、人間の美意識や指向性や価値観はどんどん変わる可能性があるのだと思う。

言語は、その物語性によって、思考の演算を規定するドライバーである情動と感受性に働きかけるのだと思う。

言語はツールであり、心的プロセスの上に載った装置、オペレーションシステムである。

言語はその上でなおかつ、その人にとっての現実を規定する「言霊」にも呪いにもなりうる力を持っている。

言語はハラリの言う「主観的現実」を作り出すコミュニケーションツールだからだ。

感受性はボキャブラリを生み、ボキャブラリによって育てられる。

イヌイットの雪の単語の数は、西洋人によるロマンチックな妄想によって増幅されたのかもしれない。でも私たちは、日本語に雨や雪を指す単語がとても多いのを知っている。少なくとも1ダースでは絶対に足りない。

「しぐれ」「村雨」「初雪」「小糠雨」「驟雨」「あられ」「ひょう」
といった細やかなボキャブラリは、日本の詩歌の伝統のなかで育まれ、同時に日本語の感性を育んできた。

単語は、それ自体が知識と美意識のパッケージとして、人の感性と理解を育む。これは一方通行ではなくて双方向のコミュニケーションなのだ。細やかな語彙に感性を育てられた人はその語彙の新しい使い方を広めていく。

そして、価値感は繰り返し言葉を口に出すこと(アファーメーション)によって強化される。

ピンカー先生は著書の中で「性差別的な思考は性差別的言語のせいだ」と言葉を非難する男女同権論者を小馬鹿にしているが、差別的表現を無自覚に使うということは、その単語に含まれる主観的現実(たとえば、特定の人種は劣っている、男性を補佐するのが女性の役割である、同性愛は治療を必要とする疾患である、など)を許容し、追認する態度によって、そのストーリーと価値観を強化していくことにほかならない。

だからといってむやみに差別用語をほかの言葉に置き換えるだけで思考をやめてしまってはあまり意味がないのだけど。

そこに差別構造があることを発見するのは、それまで特に不便を感じていなかった人にとってはとても面倒で、精神的苦痛をともなうことだと思う。

他人にとってその言葉が示す現実を知ることは、新しい体験だからだ。自分が慣れ親しんだストーリーの一部を否定しなければ体験できないこともある。

こうして見ると、<万物は言によって成った>というヨハネのことばは意外とあたっているといってもいいのではないかと思う。社会的な現実のほとんどは、言葉の作用なしには体験できないからだ。

冒頭のビジュアルは、東村禄子氏の作品です

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