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無限大の欲望

 私たちが生きる上で自明視しているものは、そうでないことが少なくない。私たちがまだ少年・少女だった頃は、職業に対して抱く感情は可能性に溢れていただろう。それは信念ともいえるかもしれない。何にでもなれるという全能感。

 けれど、少年・少女は、ずっと少年・少女のままでいられるわけではない。幼い頃に抱いた願いをより一層確信することもあれば、それが幻想に過ぎないと結論付けることもあるだろう。なにかを選ぶということは、選ばれなかったことから目を逸らすともいえる。可能性の束の中から、リアリティーを覚えるものをみつける。そうして、いつかは現実に思えた可能性の束が少しずつ、でも確かにそれしかあり得ない回避不可能な事実にみえてくる──。

 なにかを欲するのは、欲望だ。私たちは生きている限りなにかを欲する。お腹が空けば食べ物を欲するし、衣服がなければ衣服を欲する。生きるということは、すなわち、欲望と向き合うということでもある。私たちができることは限られている一方で、欲望のエネルギーは無限大だ。

 少年・少女が幼い頃に抱く職業に対する欲望も無限大だろう。だってそこには可能性で溢れているのだから。なんだって現実にできるという全能感は、彼らたちの欲望を素直に反映する。

 私たちはいつからこんなにもつまらなくなってしまったのだろう? できることにだけ目を向け、できないと思うことは効率や生産性という実質のない言葉を弄して排斥するようになったのだろう? 大人になるっていうのはこんなにもつまらないことなのだろうか?

 あの無限大にもみえた職業に対するエネルギーはいったいどこにいったのだろう? 少年・少女たちは、妥協を覚え、それを大人になることだと自らに思い込ませようとする。でも、違うだろう。無限大のエネルギーを、そんなにもつまらない現実に閉じ込めておくことはないのだ。

 確かに、生きている限り現実的なことはどこまでも付きまとう。それらから全て目を逸らして生きることは不可能に近いだろうし、また、そうして生きることが必ずしも幸せにつながるとも限らない。それでも私たちは、少年・少女の頃に抱いた幻想かもしれない素直な感情を忘れてはいけない。たとえそれがいまは現実にできないことだとしても、想像する力の価値を忘れてはいけない。なにかを変えようとする欲望は、いつだって想像力から始まる。私たちは、拙い想像力で現実を事実だらけの檻に閉じ込めていてはならない。いつか抱いた無限の可能性の力は、その檻さえも壊せるのだから──。


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