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私に優しさの美しさと悲しさを教えてくれた物語:「サクラダリセット」シリーズについて②

 私が「優しさ」という視座から「サクラダリセット」をみるのはきっと、「優しさ」のような抽象的な言葉には辞書的な意味だけをみるのでは切り取られてしまう方にその本質があるように映るからだと思います。「優しさ」に限らず、「愛」「信頼」「幸せ」等々、私たちが人生を通して選び取る価値の中には辞書で引けばその一義的な意味がわかるものの方が少ないでしょう。「優しさ」とはなにか? これは相当に難しい問題です。

 私が「サクラダリセット」の相麻菫の姿に「優しさ」を見て取るのは、彼女が辞書的な意味では捉えきれない「優しさ」を体現していると感じるからです。それは聞こえのいいことばかりではないからこそ、心を動かされたのだと思います。たとえば、「愛」もそうですよね。「愛」の肯定的な側面ばかりみるのは、盲目であることとそう大差ありません。私たちが「愛」についてなにかしら確信することがあるとすれば、その否定的な側面を受け止め、それでもなおそこに価値を見出そうとするときでしょう。「愛」についての確信と同じように、ではなくとも、私は漠然とだけれど私という人間が「優しさ」に価値を覚えていることを知っていたから、「優しさ」についてなにかひとつでも確信したいとずっと思っていたのです。

 当たり前に「優しさ」を定義することは難しいです。状況や文脈に大きく依存し、一般的にその意味を語れない、ないしその意味を語ることに意義がないからです。私自身の経験になってしまいますが、私は近しい人との対人関係を通じて「優しさ」の価値を疑うときがありました。先に述べたことの繰り返しになりますが、今思えば、誰かにとって本当に大切な価値を確信するためには疑うという過程を必然的に経なければならないのではないか、と。「サクラダリセット」に出てくる野良猫屋敷のおじさんという人がそういうことを野ノ尾盛夏という人物に対して言うんです。私はその件がとっても好きで、野良猫屋敷のおじさんが言ってることも信頼できるなと思ったものです。なにかを「信頼」するっていうのはこういうことなのか、とその件をみたとき確信めいたものを覚えたものです。『片手の楽園 サクラダリセット5』にその件があるので、よかったらご一読ください。

 私が相麻菫から「優しさ」の価値を受け取ったのは、きっとそういうことなのでしょう。言葉ではなく、行動で、彼女は雄弁に語りました。それは自己犠牲という言葉で片づけるにはあまりにも切実な姿であり、「優しさ」の欺瞞と真価の両面を白日の下に晒したともいえるでしょう。あるいは、彼女の姿は「愛」そのものだったのかもしれないと今なら思います。

  抱きしめ合うには遠すぎる。
  けれど、握手するにはちょうどいい距離 
      に、ふたりはいる。
  それはどちらかというと悲劇だが、スプー
      ン一杯程度の幸せがないわけでもなかっ
      た。
  (『少年と少女と正しさを巡る物語 サク
       ラダリセット7』367頁)

 私は、この相麻菫の地の文が彼女の物語の全てを表しているように映ります。私は、この言葉が本当に印象的で、今でも「サクラダリセット」を読み返してこのシーンに直面すると涙を流さずにはいられません。

 この記事を読んでくださっている読者の方々が「サクラダリセット」シリーズを読んで、あるいは既に読んだことがあって、この言葉をみて思うところを知りたいなと思っています。


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