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4年を経て、アメリカ④

その③の最後に少し触れた「機材との再会」についてのお話です。
その話をするために、また同じことを書くのですが、僕らはアメリカに活動拠点を移して音楽活動をしていました。拠点を移すということは当然生活の場をアメリカに移すということです。僕らは家を引き払い大切なもの以外の家財道具を全て処分して、本当に大切なものだけをアメリカに運びました。で、ビザの更新のために必要最低限の持ち物で日本に帰国した時にコロナに見舞われ、アメリカに戻れなくなりました。それはつまりどういうことかというと大切な家財道具を全てアメリカに置きっぱなしにしてきた、ということです。そしてその中にはミュージシャンとしての自分にとって一番重要である楽器も含まれていました。これはかなりヘビーな状況でした。現実としてコロナが爆発していた当時はそもそも音楽などできるのかどうかもわからない状況だったので、その時に楽器が手元にあるかないかは当時生きていくためには大きな問題ではなかったのかもしれません。でも自分のアイデンティティの一部が手の届かない遠い国にあるというのはボディブローのようにじわじわと効いていました。その時ストレートにがっつりと効いていたのは気に入っていた服も靴もないという状況や、家も仕事も住民票も保険証もない、という状況でしたが(笑)身一つで生きていくという時、自分たちを支え救ってくれるのは結局人とのつながりと、自分の意志の力なのだなとつくづく痛感しました。その辺りの思いはまた別の機会に。

ともかくもそんな状態でアメリカと日本の間で引き裂かれたまま、4年半という月日が経っていたのです。世の中的にはコロナでの移動制限は1、2年前ほどから通常に戻りつつあったとはいえ、僕らはすぐに戻れるような経済状況ではありませんでした。戦争やインフレのために飛行機代があまりにも高すぎました。
その間、僕らの機材や家財はどうなっていたのか?
全てバッファローの友人たちが管理・保管してくれていました。彼らとは常に連絡を取り合っていました。いつか必ず戻るから、と毎回のメールで伝え、その時がいつ来るのか全く先行きがわかりませんでした。
今回4月にアメリカに行くことになったのも急でした。年月が過ぎ、コロナの状況も変化してきたけど、ツアーをすぐにできるような経済状況でもない。しかしタイミングを待っているだけではいつまでもアメリカに行くことはできない!と僕らは感じるようになっていました。そして航空券の値段をチェックし続けていた時、この時期の値段なら行けるかも、と考え今回の渡米を決めたのです。それでも昨今の円安の影響はモロに受け、円で考えるとかなり割高になりましたが僕らが計算していた最悪の支出に比べればかなり安い値段でした。

そして渡米した翌日、僕らは荷物を預かってくれていた知人を尋ねました。
彼らの家の地下室で眠っていた僕らの家財道具の全て。それは何と段ボールで30個ほどの数になっていました。僕らのペダル(エフェクター)、アンプやドラムセットなどの機材は別のミュージシャンの友人の家で保管されていました。ツアーでよく走ってくれていた僕らの車は残念ながら劣化がひどく廃車になってしまっていました。
ギターとペダルが手元に戻ってきた瞬間のことは忘れられません。
懐かしい音がしました。ペダルに電源を入れると全てのものが完璧に動きました。
「戻ってきた、ついに戻ってきた!」というあの時の興奮と喜びは忘れられません。ニヤニヤしながら夜中にギターを弾いていました。
どの機材に触れても懐かしさが込み上げてきました。
良い音でした。ああ、このギターはこんな音だった、と確認しました。
長い時間を経て、やっと再会できました。ここに至るまでどれだけのものを乗り越えてきたのかと思うと、感激もひとしおでした。
知人宅にあった全ての家財道具を今回のアメリカの宿に運びました。
あっという間に部屋が段ボールだらけになりました。
どの箱を開けても、「あ、これはここにあったのか!」という発見ばかりでした。
タイムスリップしたような気分でした。機材も家財道具も全てタイムカプセルのようでした。経験したことのない感覚でした。

4年半!
この年月の意味は何なのでしょう?
それはわかりません。とにかく長かった。長かったからこそ嬉しかった。
そんな思いの中で、今回のたった一回のライブがあったわけです。

続く

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