言葉に出来ないことの大切さ
言葉にできないものがある。
感じたことや思いなど色々なもの。
言葉にした瞬間に、大事なものがこぼれ落ちてしまう感覚は何度も感じたことがある。何かを食べて「美味しい!」と言った瞬間に、それはただの美味しいものになってしまう。音楽を聴いて感動した時に「すごい!」と言った瞬間に、すごいだけのものになってしまう。
それが嫌だから、言葉にしたとしてもそれで終わらせないように、自分の中でモヤモヤさせたままにしておこうと努力している。
感動の表現をしたくない、ということではない。
その表現を言葉や説明だけに閉じ込めたくないということだ。
自分の心が動いた時に、すぐに言葉にしたり説明したりすることで、そのものの素晴らしさが失われてしまうのが本当に嫌なのだ。
だから言葉にしつつも、言葉にし尽くせないものがあることを決して忘れないように強く自分を戒めている。
物事を理論化したり、計算して数値にしたりすることで人間というのは大きく進化もし発展もしてきた。でもこの世界の全てが理論と数値で説明できる、処理できる、と考えることには同意できない。
実際、日常生活を送るために欠かせないネットなどは演算と数値の極みなのだし、それによって僕自身たくさんの恩恵も受けている。そんな中でこの世界は演算と数値で出来ているという勘違いに陥らないように常に自分を戒めている。
効率のよいことだけを求めないように常々思う。
効率だけを考えることで失われることがあまりにも大きいから。
何でも即断即決する人間も信用していない。
そういう人は結構たくさんいる。
どんなことでもすぐに決めてしまったり、「それはこういうことだ」と結論を出す人。全く知的な洞察がないまま、自分の経験則だけで即断即決する人は絶対に信じない。迷わない人、逡巡しない人、考えない人、反省や後悔をしない人などどうして信用できる?
言葉や数字に置き換えないままにしておくことを大切にしている。
そうしないと、自分の中の何か大事な感覚が削り取られていくような気がしているのだ。
そのために、あえて曖昧さを残したりスッキリしない部分を残したりしている。
曖昧さを保つのはとても難しい。
それは気持ちのよい状態ではない。
時にはこぼれ落ちるものを諦めて進まなければならない時もある。
そんな時でも、自分の世界を貧しいものにしないために「こぼれ落ちているものがある」ということを忘れないようにしている。
そんなことに何の意味があるのかは知らない。
意味がわからなくても「そんな気がするんだ」という自分の感覚を守っている。
(2022.5.8)
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